橋本裕の日記
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十年以上も前になるが、二人の娘が幼い頃、私たち一家は名古屋市の名東区の借家に住んでいた。近くに大きな池のある公園があり、毎日のように出かけていた。どうしてそんな暇があったのかというと、私はその頃夜間定時制高校に勤務していたので、昼間は家にいたからだ。
公園の池は「でっちょうの池」という名前で、梅雨の季節になると蓮の花が一面に咲いて美しかった。鯉や亀がいて、家から持ってきたパンくずを娘たちと一緒に投げ与えてやったものだ。
公園の近くに、この公園の管理を市から委託されていた老夫婦の住んでいる家があって、そこにも鯉のいる池があって、私たちはしばしばその家を訪れて、一休みさせて貰った。クラシック音楽と油絵が趣味だというKさんとその奥さんのことを、娘たちは「でっちょう池のおじいさん、おばあさん」と呼んでなついていた。私たち夫婦もその家の縁側に腰を下ろし、音楽に耳を傾け、Kさんの庭の景色を眺めながら、平和でのどかなひとときをすごさせてもらった。
十年ほど前に一宮市に家を買って引っ越すとき、Kさんから自分の描いた信州の山の絵を餞別にもらった。そして私たちが家を去るとき、その事を知った奥さんが息を切らせて見送りに来てくれた。私はお二人を見たのはそれが最後である。奥さんがその後5年ほどして亡くなられた。そして、その後一人暮らしをしていたKさんが、去年、亡くなられた。享年92歳だったという。
Kさんの死を知ったのは昨日のことだった、Kさんからの年賀状がこないので、不審に思った妻が電話をしたところ、留守電になっていた。胸騒ぎを覚えた妻と娘が名古屋まで車を走らせ、Kさんの家を直接訪れたところ、門に鍵がかかっていた。それで近所の病院に行ったところ、受付の看護婦から、「Kさんなら、去年の秋になくなりましたよ」と言われたという。
最後に妻と娘がKさんの家を訪れたのが、去年の8月3日だった。そのとき、机の上に「遺言状」が置いてあった。Kさんには娘と息子がいたが、奥さんが死んでから、彼らも、彼らの孫たちも家にまるで寄りつかなくなった。妻が弁当を買ってきて一緒に食べ始めると、気丈なKさんがその遺言状を見せて、珍しく身内の愚痴をこぼしたという。
たぶん、それからしばらくして、Kさんは病院に入り、そこで死んだのだろう。病院が混雑しており、受付の看護婦も記憶が曖昧で、病名や、入院したときの状況は何も聞き出せなかったらしい。妻と娘はそれから再び、Kさんの家に引き返し、主の居ない家をしばらく愕然とした思いで眺めていたという。
私たちがこちらに引っ越してから、Kさんの奥さんの呆けが急速にすすんだ。その後、妻や娘が訪れても名前がわからなくなっていたという。それでも、顔は覚えていて、嬉しそうに迎えてくれた。奥さんが亡くなる一、二年前、妻と娘が訪れると、Kさんのハーモニカの伴奏にあわせて、奥さんが娘時代からの愛唱歌だという「北上夜曲」を楽しそうに歌ってくれた。
私はこの光景を実際に見たわけではなく、妻から聞いただけだが、今は自分で見たかのように、瞼の裏にありありと浮かんでくる。天国でいまごろは二人そろって水入らずで、この歌を合唱していることだろう。
匂いやさしい 白百合の 濡れているよな あの瞳 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 月の夜
宵の灯 点すころ 心ほなかな 初恋を 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の せせらぎよ
銀河の流れ 仰ぎつつ 星を数えた 君と僕 想い出すのは 思い出すのは 北上河原の 星の夜
それにしても、親しかった人の死を知ることほど、悲しいことはない。縁あって私たちのよき隣人となられ、また今はなつかしい故人となられたお二人のご冥福を、こころからお祈りします。
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