橋本裕の日記
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1/4の日記「テムトの罪」でも書いたが、ソクラテスは書物(エクリチュール)を否定して「話しことば(パロール)」による対話を重視した。これについて、デリダはこんな面白いことを述べている。
ソクラテスは、パロールこそすべてだと言おうとして、「魂の中にほんとうの意味で書き込まれた言葉が大切だ」と言っている。しかし「書き込まれた」というのは、すでに文章としての言葉を前提にしなければ成り立たないことで、ソクラテスのいうパロールもその実、「仮装されたエクリチュール」に過ぎない。
同様なことは、ルソーの文章の中にもみられるようで、たとえば、ルソーは、エクリチュール(書物)を文明の悪、人間を本来からの自然から堕落させる死んだ技術として口をきわめて断罪する一方で、「神の手で人間の魂に書き込まれた自然法」とか、「私の心の奥底に消し去ることのできぬ文字で書き込まれた自然の神聖な声」などと書いている。
こうして、デリダはソクラテスの言葉を逆手にとって、彼の哲学の世界を「脱構築」していくわけだが、私はデリダのこの戦術に感心したものの、やはりもっとストレートに、「本など書くな」と忠告したテムトやソクラテスの主張に心惹かれるものがある。
もしソクラテスについての本をプラトンが書かなかったら。そしてそもそも本などというものがこの世になかったとしたら、私はもっと人間は上等な存在になっていただろうと、どうしても考えざるをえない。
やはり、ソクラテスは正しいのではないだろうか。なぜなら、プラトンがソクラテスの事をかかなければ、彼の言葉は残らず、人間は書物などに頼らず、自分の頭で考えることを続けただろう。そうすれば、第二、第三のソクラテスが出現したかもしれない。
しかし、ソクラテス以後、ソクラテスを超える哲学者は出なかった。いや、哲学者の名に値する哲学者など、ひとりもいなかった。なぜなら、プラトンがソクラテスについて書いてしまったから。つまり、そこで、哲学は終わってしまったのだ。あとはホワイトヘッドが言ったように、哲学とは「哲学について書かれた本の注釈をつくること」になってしまった。
とはいえ、人間はやはり書き続けるし、書かずにはいられないのだろう。私自身のことを振り返っても、書いている内容と、その行為の間に自己矛盾のあることを知りながら、こうして書いているではないか。私自身、書くという行為が、もはや業のようで、その病から容易なことで抜けられそうもない。
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