橋本裕の日記
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原始人が壁画に最初に牛の絵を描いたとき、その稚拙な絵は他人に牛のようには見えなかっただろう。描いている本人は牛の絵だと思っていても、見ているものには、それは何かの抽象的な「かたち」でしかない。
しかし、本人に「これは牛の絵だよ」と言われて、よく眺めてみると、その「かたち」が牛に見えてくる。そのとき、初めてそれは「牛の絵」ということになり、「形」の定まった「具象画」になる。
なかには腕のいい男がいて、誰が見ても牛だとわかる絵を描くかもしれない。そのとき彼の描く絵ははじめから、「牛の絵」だとして、社会的に認知されるだろう。この場合には、「かたち」がそのまま「形」になっていると考えられる。
文字を書く場合でもそうだ。日本人の書いた文字を日本語を知らない外国人が見ても、それは文字に見えない。ただの何かの訳の分からない曲線のからみあった「かたち」だ。ところがその「かたち」を日本人が見れば文字として、つまり意味を持った「形」としてただちに認識するだろう。だから、同じものが、「かたち」にも「形」にもなる。「かたち」と「形」はそうして相互に転化する。
音楽の場合を考えよう。たとえば、モーツアルトの音楽を聴いて、ある人にはそれが魂をゆさぶる妙なる音色にきこえる。それはその音の構成にその人は「あるもの」を見いだしているからだ。ところがその「あるもの」が分からない人間にとって、同じ音楽が音楽ではなく、ただの音の鳴奏としか聞こえない。ただの音が音楽になるには「なにものか」の助けが必要である。
能役者の演技の場合も、プロであれば彼の演技はすでに「形」が決まっている。しかし、私たちが演じても、自分では「形」になっていると思っても、だれも「形」としては認めてくれない。なにか変な風に体を動かしているなと思われるくらいだ。つまり、初心者の演じる能はいまだ「形」ではなく、それ以前のたんなる「かたち」でしかない。
なぜ、こんな面倒なことを考えるかというと、それは文化現象とは、それを文化として認めるものにとってはじめて文化現象になると言いたいからである。つまり文化の担い手があって、文化が成り立つ。作り手だけでなく、その受取り手の存在も重要である。「かたち」が「形」になる過程には、深く豊かな表現論・意味論の世界が広がっている。
ところで、ここまでのところでは、「かたち」が技術的に洗練され、社会的に認知されたものが「形」であると考えられよう。「かたち」は未開の世界そのものだが、「形」は文明の世界の出来事である。「かたち」を「形」に高めることが「文化」だと考えられる。しかし、文化を創造する過程で、「かたち」の持つ本源的な力は重要な役割を果たしている。そのことを最後に述べておこう。
子供たちは「形」にとらわれずにものが見える。しかし、私たち大人は「かたち」を見る前に「形」を見てしまう。なかなか「形」の呪縛から自由になれない。ただ、一流の画家の目にはこのエネルギーに満ちた、そして訳の分からない混沌とした「かたち」の世界が、ありありと見えているはずである。そして、その混沌の中から、創作を始める。そのためには、できあがった「形」からはなれて、それ以前の、無定型な「かたち」の世界に入っていかなければならない。ところが、これはかなり、勇気のいることなのである。
一般の分別を備えた大人にとって、「かたち」は忌避すべきものである。なぜなら、それは現実の裂け目であり、秩序の崩壊であり、無と不条理の体験でもあるからだ。意味と日常性の喪失した世界に、私たち大人は不快感を覚えるだろう。サルトルの「嘔吐」の主人公は「マロニエの木の根」を見ているときに、この不条理を体験する。
デリダは「名付けることは根源的な暴力だ」と言っている。名付けることによって、「かたち」は「形」に姿をかえる。そして、文化的に洗練され、言葉に慣れた私たち大人たちが見ているのは、お行儀のよい「形」であり、決して、現実の生々しい「かたち」ではない。
子供の絵が、あんなに生き生きとして面白いのはなぜか。子供は「かたち」のおもしろさを知っているからだ。でも分別に囚われた大人には「かたち」の世界は見えない。だから大人の絵はあまり面白くないのである。大人が考えることが、みんな同じで、面白くないのと同じように。
かって私たち大人も、子供だった。そして、もっと自由に世界を見ていたはずである。私たちは知識を蓄えることによって、ものの眺め方が一面的になり、考え方が型にはまり、しかもそのことさえ気付かずに、本当に大切なことを忘れて生きているのかも知れない。
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