橋本裕の日記
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2001年01月10日(水) 「であること」の世界

 丸山真男氏が岩波新書の『日本の思想』(1961年)の中で、価値には「である」価値と、「する」価値の二種類のものがあると書いている。たとえば、徳川時代の日本は典型的な「である」価値や論理で成り立っていた社会だった。丸山氏の文章を引用すると、

「そこでは出生とか家柄とか年齢とかいう要素が社会関係において決定的な役割を担っています。したがって、こういう社会では権力関係にもモラルにも、一般的なものの考え方の上でも、何をするかということよりも、何であるかということが価値判断の重要な基準となるわけです。大名や武士は、大名であり武士であるという身分的な「属性」のゆえに当然支配するという建前になっています。‥‥人々のふるまい方や交わり方もここでは彼が何であるかということから、いわば自然に「流れ出て」来ます。武士は武士らしく、町人は町人にふさわしくというのが、そこでの基本的なモラルであります」

 日本も明治時代になって、西欧の近代主義をとりいれた。近代精神は、先天的な権威のような「である」論理・価値ではなくて、実際の機能や効用を重視する「する」論理・価値の体系でできている。ところが、日本の場合は「和魂洋才」の言葉に見られるように、「である」価値の温存の上に「する」価値が導入された。そしてこのことが、日本社会の価値観を混乱させることになった。再び、丸山氏の文章を引用すると、

「日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り、そのうえ、「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されて来たところに発しているわけなのです」

 こうした不幸な混乱は今日の日本社会をも覆っているように思われる。いやむしろますます、混乱の度を深めようとしているようでさえある。憲法を代表とする近代合理精神は「する」原理の上に立てられている。これにたいして、「である」価値の代表は「天皇制」だろう。日本国憲法第12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」となっている。「である」原理の天皇制にたいして、「する」原理の上に立つ日本国憲法は「不断の努力によってこれを保持しなければならない」という脆弱さがある。
 
「国民は今や主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ、という警告になっているわけなのです」

 この丸山氏の警告に私たちは今十分に耳を傾けるべきだろう。そうでないと、この先どんな災いが身に及んでくるかわからない。私たちは「であること」の世界に安住していてはならない。そしてまた、丸山氏のいう宿命的な混乱を、どう解決していったらよいのか、その方策をよくよく考えてみるべきだろう。



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