橋本裕の日記
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2001年01月12日(金) 戒律の世界

 インドネシアで「味の素」の回収騒ぎが起こっている。製造過程で豚の膵臓から抽出した成分を使ったためだという。イスラム教の聖典コーランには豚は穢れた動物で、食べてはいけないと記されているそうだ。だから、これを口にすることは出来ない。

 なぜ、豚を穢れた動物だと考えたのだろう。昨日の毎日新聞の「余録」に、米国の人類学者マービン・ハリス氏の説が書いてあったので、紹介しておこう。彼によると、牛や羊と違って、豚を飼うには人間が食べる穀類を与えてやる必要があり、森林が破壊されて砂漠化したあとの中東の自然環境では、飼育にコストがかかりすぎる。それを食料から外すことは、砂漠化による食糧危機を回避する方策だったという。ちなみに、豚肉を食べることの禁忌は旧約聖書の「レビ記」にもあるらしい。

 簡単に言えば、豚は自然破壊を助長する動物だったのだろう。砂漠化しつつある環境に住む人々にとって、自然の豊かさを守ることは至上命題だった。そのために、旧約聖書やコーランで豚は穢れた存在だとされ、豚肉を食べることは宗教上の禁忌になった。

 イエス・キリストは「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は安息日にもまた主なのである」(マルコ伝)と説いている。「戒律」を絶対視するパリサイ人はこれを聞いて、イエスを殺す相談を始めるわけだが、イエスが命をかけて主張した新しい教えによって、多くの人々は戒律の支配する不合理の世界から解放された。

 戒律や掟と言われるものは、もともとは合理性をもち、何か大切な意味があったものだろう。しかし、時代が変わり、環境が変わる中で、その合理性が失われ、時には不合理で非人間的な因習でしかなくなってしまう。宗教は時代や環境によって変わらない永遠な真理を発見し、これを説くことに専念してはどうだろう。大切なことは「人間のために宗教や戒律があるのであり、宗教や戒律のために人間があるのではない」ということだ。


橋本裕 |MAILHomePage

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