橋本裕の日記
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2001年01月14日(日) 「自然法爾」の世界

 私の通っていた高校は浄土真宗系のミッションスクールだったこともあり、毎週「仏教」の授業があった。1年生のとき、釈迦の生涯や教えについて習い、2年生で、法然、道元、日蓮などの鎌倉仏教の祖師たちについてならった。そして、3年生で親鸞の「歎異抄」を一年間かけて僧籍にある教頭先生からみっちりならった。

 私が哲学や宗教、文学の世界に入っていったのは、高校での仏教との出会いが大きいのではないかと思う。県立高校の受験に失敗して、やむなく通うことになった私立高校だったが、振り返ってみると、これは結果的に大変なプラスになったのではないか。仏教ではこれを「逆縁」という。

 中でも親鸞の言行録である「歎異抄」には魅了された。私は今も座右の書として読み返しているし、「歎異抄」にかんする市民講座などがあると参加して、その筋の専門家に「絶対他力」の教えについて聴いたりしたこともある。そうした中で、私がとくに惹かれたのが、晩年の親鸞の、「あるがままに」という教えである。

 親鸞が86歳の時書いた文章に「自然法爾ということ」と題されたものがある。これは「末燈鈔」の中に納められているが、その中に「はからいを捨て、善いとも悪いともはからわないことが自然(じねん)」であり、「阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります」と書いてある。

 簡単に言えば、自然とは「ありのまま」であり、ありのままであることが、すなわちさとりであると、晩年の親鸞は考えていたようだ。そしてありのままあるということは、すなわち大いなる阿弥陀の本願(他力)のなかに生かされてあるということだろう。

 正直言って、私は親鸞の主著「教行信証」は読む気がしない。他の経典の引用が多く、まだ彼の思想も充分熟していないと思われるからだ。しかし、80歳を過ぎてからの門徒にあてた手紙は信心の本質をずばりやさしい言葉で表現している。原文はむつかしいので、私はもっぱら「日本の名著8親鸞」(中央公論社)の現代語訳をたよりにして読んでいる。石田瑞麿さんの解説もわかりやすく、参考になった。

 親鸞は「信心を得た人の心は、常に浄土に住している」「信心を得るとき、すなわち往生する」(唯信鈔文意)と書いている。つまり親鸞にあって、往生とは死んでから行く来世のことではなく、この現世において私たち一人一人の身の上に現れるものだった。親鸞の仏教は死後の仏教ではなく、この現世を幸福に生きるための福音だった。少年時代から科学を愛し、大学・大学院では理論物理学を専攻した私は、もちろん死後の世界を信じない。しかし、そんな私をも包摂するおおきな世界が、親鸞の「自然法爾」の世界だと思う。


橋本裕 |MAILHomePage

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