橋本裕の日記
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仏教の十界論によると、人間が住む世界は「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人間界」「天界」という6つの迷いの世界と、「声聞界」「縁覚界」「菩薩界」「仏界」という4つのさとりの世界に分けられるという。そして真理に目覚める前の人は、6つの迷いの世界を彷徨うことになる。
つまりあるときは、餓鬼のように飢えて貪り、修羅のように憎しみに燃えて人と争う。ときには事業に成功して、巨万の富を蓄え、天にも昇る幸運を味わうかも知れないが、一寸先は闇の世界で、ガンを宣告され、余命幾ばくもないと知らされて、地獄に突き落とされるかも知れない。こうした心のさまよいを、仏教では六道輪廻と呼んでいる。人間の欲望の世界をこのように6つに整理して示されると、とてもわかりやすい。
釈迦は、この迷いの世界からの解脱を説いた。そのためには世俗的な欲望(煩悩)を捨てて、人生の真理をもとめようとする精神的欲求(菩提心)に目覚めなければならない。「声聞」とはそうした精神的欲求に目覚めて、道を求め、修行を始めた者である。そしてその結果なにがしかの真理を体得した者を「縁覚」とよぶ。その真理を多くの人に分かち合おうとして努力するものを「菩薩」といい、その上に慈愛と真理を体現する「仏」という完全な悟りの世界がある。
プラトンは人間が住む現象界を洞窟の牢獄にたとえている。そして、その奴隷である人間を理想の世界(イデア界)へ向かわせるものが愛の神エロスだと考えた。人間はエロスによって、美しいもの、真実なもの憧れるのである。そしてフィロソフィー(哲学)とはギリシャ語で知を愛することであった。仏教との対比でいうと、エロスは煩悩を菩提のあいだに位置する中間者ということになろうか。
親鸞は「煩悩即菩提」と言っている。煩悩は薪で、菩提は火のようなものだという。薪を離れて、火は存在しない。煩悩の存在を認め、これを積極的に生かそうという姿勢がみられる。今日の心理学の言葉を使えば、「昇華」ということであろう。欲望を殺すのではなく、これを菩提心にたかめることが必要なのだろう。
親鸞の生涯もまたこの事の実践であったように思われる。僧侶には許されていない妻帯をして、彼は僧籍を剥奪されて越後に流された。自らを愚禿親鸞と呼び、煩悩具足の凡夫と呼んだ親鸞の誠実さに注目したい。人間は誰しも煩悩を離れて生きることは出来ない。それでも、煩悩をより高い精神的欲求にまで高めることは出来る。
手をあわすれば 洗われていく ふしぎなる この世かな かたじけなき ぼんのうの世かな 八木重吉
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