橋本裕の日記
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今日は江戸時代末期の福井の歌人、橘曙覧の歌を紹介しよう。風にそよぐ一本の樅の木のような趣の、自然でのびやかな歌である。 たのしみは心にうかぶはかなごと思いつづけて煙草すふとき
たのしみは心にかなふ山水のあたりしづかに見てありくとき
たのしみは昼寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめて知るとき
たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき
たのしみはそぞろ読みゆく書の中に我とひとしき人をみし時
彼は生前全く世間的には無名だったが、死後、長男が彼の遺稿をまとめて歌集を出したところ、偶然それが正岡子規の目にとまり、子規が、「橘曙覧こそ実朝以来のただ一人の歌人である」と絶賛して、名前が世に知られることになった。
彼はもともと裕福な商家の跡取りに生まれたが、三十五歳の頃家督を弟に譲り、それから妻と二人の子供をかかえて、あばらやで貧しい生活をしながら、歌を詠む生活を送っていた。福井藩主松平春嶽が彼の評判を聞き、仕官するように促しても、「自分はすずなのような地味な存在なのです。田畑に在ればこそ花なのです」と答えて応じなかったと言う。
福井藩主が訪れた曙覧のあばらや跡が、私の福井の実家の近くにある。私は福井に帰省する度に訪れて、彼の「独楽吟」の歌を口ずさみむ。
たのしみは空暖かにうち晴れし春秋の日に出てありく時
人臭き世にはおかざる我がこころすみかを問わば山のしら雲
豪商の家督を弟に譲った後、彼は生家から援助を受けた形跡がない。松平春嶽の仕官の要請を断ったのにも、彼の潔い意志力の冴えと、自由人としての気概が感じられる。「神仙の姿あり」と評された彼の風貌の気品も、こうして生まれたのだろう。
「誠の人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝えん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり」(徒然草)
橘曙覧は良寛と並んで、私がもっとも好きな歌人の一人だ。同郷のよしみということもあるが、妻子とともに市井にあって生活の苦労をしながら、しかも一途に美的な生涯を貫いた彼の生き方はすばらしいと思う。
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