橋本裕の日記
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エルサレムの中心をなす神殿の丘の上に、一個の「岩」があるらしい。そして、この岩はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教のそれぞれにとって、それぞれ「聖なる存在」として特別な意味を持ち、礼拝の対象になっているという。
まず、ユダヤ教徒にとってこの「岩」は何か。それはアブラハムが神に忠誠を誓うために息子のイサクを乗せて殺そうとした場所だという。したがって、このいわれのある岩を祭るために、ソロモン王がここに神殿を築き、この岩のある丘が「神殿の丘」と呼ばれるようになった。
ところがキリスト教徒にとって、この岩は別の重要な意味を持つ。神殿の丘にある「岩」は、キリストが十字架にかけたれて昇天した場所であり、岩にある窪みはそのときのキリストの足跡だというのだ。だから、岩を取り囲むドームはやがてキリスト教の聖地になった。
それではイスラム教徒にとって、この岩はどんないわれを持つのか。コーランに、神がモハメッドをメッカから「至遠の地」(非常に遠い場所)へと連れていったというくだりがある。その「至遠の地」がエルサレムの神殿の丘で、丘の中心の「岩」の窪みは、モハメッドがメッカに帰る為に空に飛び立つときの足跡だという。( http://tanakanews.com/ 参照)
昔読んだ福翁自伝に、お宮のご神体をこっそり覗いてみたら、ただの石ころだったので、別の石を拾ってきてとりかえた。そして大人たちが相変わらずそれを後生大事に礼拝しているのを見て、こっそり笑っていたという話があった。福沢諭吉の少年時代の愉快なエピソードである。エルサレムの丘にある「岩」もこのたぐいではないかと考えてしまうのは、少し不謹慎に過ぎるのだろうか。
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