橋本裕の日記
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2001年01月24日(水) 神霊の宿るところ

 高校の頃の古典の授業で「枕詞」について習った。たとえば「あしびきの」は「山」にかかる枕詞である。「むらぎもの」は「心」にかかり、「ひさかたの」は「光」にかかる。それから清少納言の「枕草子」のなかから、何編か学んだりした。ところで、この「枕」とはなんだろうか。

「我が古代信仰では、神霊の寓りとして、色々の物を考えた。其の中でも、祭時に当たって、最大切な神器を託宣する者の、神霊の移るを待つ設備が、『まくら』である。だから、其の枕の中には、神霊が一時寓るとせられたのである。その神座とも言うべき物に、頭を置くことが、霊の移入の方便となるので、外側の条件は、託宣者が仮眠すると言ふ形を取る訳である」(折口信夫『文学様式の発生』)

 折口によれば、「まくら」とは「まくくら」で、神霊がやどる聖なる場所だという。そしてそこに頭を付けることで、神霊が人の方に移ってくる。だから、歌の中の枕詞も神霊を呼び込む、「歌にとって生命ともみえる大切なもの」である。

 しかし時代が下がると、「枕」からこの呪性が薄れてきて、単なる寝具でしかなくなり、「枕詞や歌枕も、人間に枕あるがごとく、歌の頭部にすえるための名」だとしか受け取られなくなった。しかし、枕詞が歌の生命標として中枢部をなしていたことは、万葉集の歌を詠めばいくらか実感される。

 朝影に 我が身はなりぬ 玉かぎる ほのかに見えて 去にし子ゆゑに
 
 たまゆらほのかに見えて去っていった少女によせる思いを詠んだ歌である。柿本人麻呂の若い頃の歌だと思われるが、口ずさんでいるうちに胸がときめいてくる。

「朝影」は朝日によってできる細長い影で、ここでは身のやせ細った様子を形容している。「玉かぎる」のカギルは、カグヤのカグと同根で、玉がほのかに光を出すところから、「ほのか」「はろか」「夕」「日」に掛かる枕詞になった。「玉」はまた「魂」であり、「たまふり」「たましずめ」のタマである。

 古代人は玉に魂が宿ると考えており、玉が触れ合うとき、中から霊魂が出てくると信じていた。「たまかぎる」という言葉にはそうした神秘な時代の響きが残っている。こうした力のある言葉によって、「去にし子」へのはかない思慕が、玲瓏と神秘的に描き出されている。切実な恋の思いや憧れを、美しい憧憬のなかの心象風景として捕らえた名品ではないだろうか。

 信濃なる 千曲の川の 細石(さざれし)も 君し踏みてば 玉と拾はん

 それにしても、こうした玉のような清らかな歌を産み出した万葉の時代の人々は、どんな生き方をしていたのだろう。恋愛観や人生観はどんな風だったのか、歌を口ずさんでいると、いろいろと想像させられて、興味が尽きない。


橋本裕 |MAILHomePage

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