橋本裕の日記
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「飛蝗」という言葉がある。バッタは普段は単独でいるが、干ばつなどで環境が悪化すると幼虫が集まり、体から分泌物を出してお互いに刺激し合って体が黒ずんだ脂ぎった群生相のバッタになる。群生相のバッタはやがて群を作り新天地を求めて大移動を始める。天をも暗くするこの凶悪なバッタの大群が「飛蝗」で、日本でも明治時代北海道に発生したことが記録に残っている。
動物であれ人間であれその集団の生存が危機に瀕したとき、普段では考えられないような行動をするものだ。町の善良な郵便配達夫や田舎の農夫が異国の戦場では銃を握り別人のように平気で人を殺す。そして戦争が終わるとまたもとの善良な市民に戻り、何食わぬ顔で郵便を配ったり畑を耕す。
幸いにして戦後生まれの私はそうした体験をしないで済んだが、私の父親の世代は歴史の成り行きでこうした集団的狂気の中に身を置かなければならなかった。私は自分の父親が異国で殺人者の一派であったことを残念に思う。しかし、だからといって父を非難できるかどうか疑問だ。もし私も父の立場に置かれていたら同様なことをしたに違いないと思う。我々に、父の世代の残虐行為を非難する資格があるのだろうか。
ところで今かりに再び同じような状況になり、我々が又同じ過ちを繰り返すようであれば、その行為は非難されるべきだろうか。我々はイナゴと違って過去の歴史から学ぶことができると考えれば、答えはイエスだろう。しかし我々も危機的状況に陥れば、イナゴと同じく特別な本能(DNA遺伝子の宿命的な配列)によって、再び「群生相」となって狂奔するのではないか。
これは人間性に対するあまりに悲観的な見方かも知れない。しかし私はこの可能性を否定できない。そして我々はこうした可能性を勘定に入れて、同じような悲劇を繰り返さないために、より慎重に社会の未来を考えるべきだと思う。イナゴと違って我々は理性を持っている。その理性が健全なうちに、それを最大限働かせることでしか、この危機を回避する道はない。
つまり事態が悪化する前に、その予兆の段階で、その危機に至る可能性を排除するしかないのだ。人間の理性に信頼を置きながら、しかもそれをあまりに過信しないことが大切だと思う。
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