橋本裕の日記
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高校3年生の長女が学校帰りに、地下鉄の中でこんな出来事に遭遇したという。車内はちらほらと空席があるくらいの混みようだった。長女の斜め前の初老の男の隣が空いていた。そこへ、男子の高校生が座ろうとした。
「高校生は立っていろ」 男は座ろうとした高校生の背中を突き飛ばしたので、その痩せた男子生徒は押し出されて、あやうく前に倒れそうになった。それを見て、長女はその男子生徒がかわいそうになった。同時にその見るからに傲慢そうな男に腹が立った。
男は中肉中背のがっしりした体格をしていた。対照的に高校生は線が細く、いかにも気が弱そうなタイプである。もし体格のいい男子生徒だったら、男はどんな対応をしただろう。男は「今時の高校生は根性が腐っている」などと、大きな声でしゃべり始めた。風邪気味で体調が悪くて座っていた長女も、なんとなく座っているのがいけないような、肩身の狭い思いがしてきた。
つぎの駅で、長女と中学時代に同級生だったS君が乗ってきた。穏和なS君は長女を見て、軽く微笑したあと、斜め前の男の横が空いているのに気付いて、そこへ近づいた。 (そこは駄目) と声を掛けたくなったが、どうしょうもなかった。S君も前の高校生と同じように背中を思い切り突かれて、前のめりになった。
「高校生は座るな」 男は同じように声を荒らげた。それから、前に立つS君を押しのけるように、近くの年輩の女性に声を掛け、「奥さん、どうぞこちらに腰をおかけなさい」と促した。女性は「いえ、もうすぐですから」などと遠慮していたが、再度男に促されて、男の隣りにしぶしぶ腰を下ろした。
S君は男の前に立ったままだった。前の男子生徒は押し出されたあと、気まずそうに隣りの車両に移ってしまったが、S君は男の前に毅然として立っている。その後ろ姿を眺めながら、長女はS君と男の間がこのままですみそうもないと思った。
S君は小柄だったが、正義感が強く、はっきりものを言うタイプだった。中学生の頃、クラスで担任の先生が最近遅刻が多いので、その件についてクラス討論をしたいと言ったときも、S君は真っ先に手を上げて、「僕は遅刻をしたことがありません。遅刻をしている人たちから、一人ずつ理由を聞い下さい」と発言した。誰に対してもものおじすることなく、真っ直ぐに意見を言う性格の彼が、男の理不尽な仕打ちにどう対応するか、長女は少し心配でもあり、またいくらか期待する気持もあって、成り行きを見守っていた。
男は隣の女性を相手に、高校生の悪口を言い始めた。「自分勝手で、礼儀を知らない奴が多くて困る。親の顔が見てみたものだ」などと、言いたい放題である。前に立っているS君の毅然とした態度が気にいらないのだろう。まるで喧嘩を売るような調子だった。
男の高飛車なものいいが一段落したところで、S君がしずかに口を開いた。 「僕は空いていたから座ろうとしたのです。もし、座れたとしても、だれか年輩の方が立ってみえたら、席をゆずります。これまでもそうしてきましたし、今回もそのつもりでした。だから、あなたからこういう失礼な仕打ちや非難を受けるいわれはないと思います。それから、あなたは親の顔をみたいとおっしゃいましたが、僕は両親を尊敬しています。両親まで侮辱されることはないと思いますが、どうでしょうか」
S君の声は落ち着いていて、車内によく響いた。しんとした乗客の視線が男とS君の方に注がれたが、男は急に黙り込んだ切り、青年の視線を避けるようにして、しきりに気まずそうに咳払いをするだけ。沈着冷静なS君を前にして、だれの目にも男の敗勢は明らかだった。長女は思わず、(やったね、S君)と心でつぶやいたという。
論語に「後生畏るべし。いずくんぞ来者の今にしかざるを知らんや」とある。若い者を無下におとしめることは教育的だとは言えない。若い者の将来の可能性を尊び、これを自らを超えるものとして畏敬することが、年輩者のつとめであり、また楽しみでなければならないのだろう。
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