橋本裕の日記
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2001年01月27日(土) 「純粋経験」の世界

 西田幾多郎の「善の研究」は、戦前戦後の青年の愛読書であった。私も実は高校時代に読んで、たいへん感銘をうけた覚えがある。「個人あって経験があるのではない。経験があって個人があるのである」という有名な言葉を、私は紙に書いて部屋の壁に貼った記憶がある。

 なぜこの本を読むきっかけになったのか。もう記憶は定かではないのだが、たぶん倉田百三の「愛と認識の出発」あたりの影響ではないのだろうか。私の先輩にあたる青年たちも、多くは倉田から西田哲学に入っていったようだから、私もそのくちだったことだろう。

 そう思って「愛と認識の出発」を捜したが、手元にない。ウエブサイトにあるかと思って「青空文庫」へ行ったが、そこにもなかった。「善の研究」も書棚を捜してみたが見つからなかった。しかし、これはウエブサイトの「青空文庫」に全文が収録されていた。そこで、さっそく、何年ぶりかに読み返してみた。

 その感想をここに書こうと思う。とくに今日は「善の研究」の中心となる概念である「純粋経験」という言葉に焦点をあてながら、彼の哲学の特質を考えてみようと思う。


「経験するというのは、事実そのままを知るということです。自分で細工などしないで、ありのままの事実を、そのままに受け入れて知るということです。
 純粋というのは、普通に経験といっているものも、その実は何らかの思想を交えているから、まるで思慮分別を加えない、ほんとうに経験そのものの状態をいうのです。たとえば、色を見たり、音を聞いたりしたその瞬間は、まだこれが外物の作用であるとか、私がこれを感じているとかいうようなことは考ていない。この色、この音は何であるという判断すら加わらない前の状態、それを純粋といいます。
 だから、純粋経験は直接経験と同一であると言えます。自己の意識状態を直下に経験した時、いまだに主観とか客観という意識もなくて、知識とその対象とがまったく一つのものになっている状態、こうした状態こそ、もっとも純粋な経験と言えます」(「善の研究」 第一編 純粋経験)

 西田は「純粋経験は直接経験と同一である」と書いている。つまり、直接体験は純粋で、しかもこれこそ最も醇なるものだと考えているわけだ。たしかに直接体験は錯綜した意識の反芻を経ていない。ありのままの事実をとありのままに反映しているという意味で純粋だと言える。

 しかし、直接経験というのは純粋であるだけではない。それは同時に、なまの現実の持つ豊穣さをそなえている。この混沌とした直接体験を、むしろ内容的にも純粋なものとして受け取るところに、彼の哲学の特徴があるのように思える。

「いかなる意識も、それが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験であり、単に事実である。これに反し、この統一が破れて、他との関係に入った時、意味が生まれ、判断が生まれることになる。我々に直接に与えられている純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いて来るので、これが現在意識の一部と結合し一部と衝突し、ここに純粋経験の状態が分析され、破壊されることもおこってくる。意味とか判断とかいうものはこの不統一の状態である。
しかしもう少し考えてみると、この統一、不統一ということも、程度の差だと言えないこともない。100パーセント統一された意識もなければ、まったく不統一なる意識も考えられない。
すべての意識は体系的発展である。瞬間的知識であっても種々の対立、変化を含蓄しているように、意味とか判断とかいった関係の意識の背後には、この関係を成立させる統一的意識がなければならない」

さて、彼のいう「純粋経験」について、いくらか考察を付け加えておこう。たとえば子供が数を数えながら手鞠を突いている状況を考えてみる。子供は手鞠を地面に弾ませ、数を数えている。そしてときどき、「わあ、今日は調子がいいぞ」とか、「ちょっと、疲れたけど、まだがんばれるぞ」などと考えているかもしれない。

 子供が無心に手鞠を突くとき、ときには今日はいい天気だなとか、少し汗をかいたから、一休みしょうかとか、いろいろ考える。むしろ手鞠を突くのが上手になるほど、ゆとりが出来て手鞠を楽しみながら、いろいろと考えるかもしれない。

 もの事に熟練するということは、そういうことではないか。たとえば自動車の運転でも、初心者の頃はすごく意識を使って集中するが、慣れてくるとほとんど気を使わない。車を運転しながら、色々なことを考え、車の運転そのものはほとんど「無意識」で行っている。反省的意識がなくなるという意味で、純粋状態に近づいてくる。

 文章を書くときでもそうで、初心の頃はいろいろと表現に気を使うが、慣れてくると、あまり表現に苦労することはなくなる。むしろ内容に意識を使う。内容を考えるだけで、自然に言葉が形成され、文章が作られていく。

 つまり西田の言う「直接経験は純粋経験である」という命題が成り立つには、そこにこうした達成(統一)がなければならない。「直接経験は純粋経験である」ということは、すでに人間はその出発点で「達成」を恵まれているということになる。

「混沌」が「純粋」であるために、私たちには大いなる恵みが与えられていなければならない。したがって、純粋経験ということの意味を深く尋ねていけば、私たちはそこから、必然的に「宗教的なもの」に出会わざるを得なくなるのだと思う。こう考えると、西田の言う「純粋経験」は親鸞の「絶対他力」へと至る出発点だとも言える。私は「善の研究」にこうした道のりを読んだ。


橋本裕 |MAILHomePage

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