橋本裕の日記
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ある哲学者によれば、自然は人間をとおして、自己を意識するつまり、人間の意識そのものが自然の反省的意識だそうだ。たしかに人間はそうした意味でも特別な存在かもしれない。サルトルが人間を対自存在と捕らえたゆえんでもあるのだろう。
ところで、もの事を全体としてみるのではなく、個別的に見るのが分析知だ。言語による概念の使用や比較、数値計算などがこれで、人間の左脳がこれにかかわっているので、左脳知などと呼ばれている。
これに対して、物事を全体的に統一的に見るのが直観知である。たとえば目の前の赤い花を赤い花として一つのものとして眺める。もちろん彼が眺めているのは、一つ一つの花びらであり、茎や葉や、様々な細部の組織から成る集合体だが、そうして分析的には眺めない。
薔薇の木に 薔薇の花咲く 何の不思議なけれど (北原白秋)
詩人は花を見ながら、しかもその花の中に「永遠のいのち」を見つめている。こうした直観知はイメージ脳とよばれる左脳の働きだと言われている。
私たちの認識はこの左脳的な分析知と右脳的な直観知を両輪として、両者の緊密な相補的共同作業によるものだ。しかし、どちらかというと、日本人は分析的であるより、直観的な方面に優れている。たとえば、日本を代表する哲学者の西田幾多郎はこう書いている。
「このような自然の生命である統一力は単に我々の思惟によって作られた抽象的概念でなく、かえって我々の直覚の上に現れてくる 事実である。我々は愛する花を見、また親しい動物を見て、ただちに全体において統一的或るものをとらえるのである」(善の研究)
「これまでは西洋人は自分の文化をもっともすぐれたものと考え、人間文化の進んでゆくことは自分たちの文化の方へ進むこととし、東洋等の他の民族は遅れているのでそれも進めば自分と同じものにならねばならぬと考えた。日本人にもそう考えている人がいるが、私はそうではなしに、東洋には根底的に違ったものがあると思う。それらが相補って人間文化を形成し、完全な人間性をあらわしてゆくのではないだろうか。こういうものを見いだすのが、日本文化の進むべき道だと思う」(「日本文化の問題」1939年)
それでは、何故西洋に分析的な科学がうまれ、東洋には生まれなかったのか。それはたぶん東洋人は自然を対象的に眺める意識が弱かったのだろうと思う。分析するというのは、ものごとを分解するということだ。分解し分類する。こういう苛烈な客観意識が東洋には希薄だったのだろう。いいかえてみれば、それだけ自然条件にめぐまれていた。
そのかわり、東洋は自然と新和的に生きる知恵に長けている。自然を単に対象物とは眺めないで、そこに奥深い生命の働きを実感し、さらに直感する。自然の豊穣さ、多様さをあるがままに受け入れ、これを尊ぶ姿勢がある。
分析的な方向を進めると、こうした豊かな生命観がうしなわれる危険がある。私自身大学時代、物理や数学に没頭する中で精神的に異常な体験をしたことがあった。いまから考えればそれは「離人症」にでも分類される体験で、つまりあらゆるものに生の実感が感じられなくなるという体験だ。
花を見て、それが花であると言うことが完璧に分かるのだが、そこに何のかぐわしさも、うつくしさも感じられない。ただ単に、概念だけの世界。それは今思い返しても恐るべき無機質の世界である。まさしく絶望の世界だ。
今私は、あらゆるものに感動することが出来る。モーツアルトに感動し、セザンヌに魅入られ、数学や物理学にさえ美を感得する。なぜか、それは自然を対象的に眺めるだけでなく、それと新和的な共生関係を回復したからだと思う。
こういう微妙な問題を、もうすこし論理的に説明できたらいいのだが・・・。私はその手がかりになるのが、西田哲学ではないかと思っている。
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