橋本裕の日記
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2001年01月31日(水) 存在の呼びかけ

 中学、高校時代、私は休日にはたいてい父と一緒に、山仕事に出かけた。お昼になると、父は握り飯を食べたあと酒を飲み、一眠りする。その間、私は木陰の切り株の上に腰を下ろして、文庫本をひらいた。

 私は山仕事が嫌いだった。そして私にこうした苦しい労働を強制する父を憎んでいた。しかし、このひとときはちょっとよかった。本を読みながら、足下にやってきたリスのかわいらしい姿に微笑したり、葉ずれの音に何か永遠の世界への誘いを感じたり・・・

 そうして読んだ本の中には「善の研究」といった哲学の本もあった。「世界がいかに存在するか」という問いよりも、もっと根本的な問いがある。それは「何故世界が存在するか」という問いである。世界と自己が存在することそのものの不思議。ときおり、山の稜線の遙か向こうの空に視線をさまよわせながら、私はその「不思議さ」を感じていた。

 ハイデガーは「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、存在者が存在するという驚異の中の驚異を経験する」と書いている。ハイデガーは古代ギリシャの哲学、西欧哲学の始源へと目を向け、そこに、ニーチェの言う生きた自然、単に「ある」ものではなく、「なる」もののとしての自然を見いだした。

 脱自性を備え、生きた時間の中に自己を荒々しく展開する〈自然〉、人間もまたこの〈自然〉の一環として、その息吹の中に包まれて、脱自的な生を生きることになる。

 西田幾多郎はハイデガーの元に留学することになった九鬼周蔵に「ハイデガーは無神論だから底が浅い」と言ったと言う。しかし、晩年のハイデガーはむしろどんどん神秘主義に接近していった。

 私がハイデガーに共感を覚えたのは、そこの西田哲学と通底する感性を感じたからだろう。ヘルダーリンを愛し「ギリシャ人民には自然はみな生きた自然であった」(善の研究)と書いた西田とハイデガーの立場はそのみかけほどかけ離れているものではないと思う。

「存在の呼びかけ」は別の言葉で言えば、道元の「仏のかたより行われて、これに従いもてゆく」(正法眼蔵)世界であり、親鸞の言う「絶対他力」や「自然法爾の世界」でもあろう。

 50歳を過ぎて、私は高校時代に読んだ本がまたひとしきり読みたくなってきた。そして、私の脳裏にしきりに蘇ってくるのは、あの苦しい労働の舞台であった故郷の山々の、のどかで美しい自然の姿である。


橋本裕 |MAILHomePage

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