橋本裕の日記
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大津皇子には二つ年上の姉がいた。姉弟がまだ幼い頃に母親(大田皇女、持統天皇の姉)が世を去ったこともあり、二人は大変仲がよかった。姉の名前は大伯皇女(おおくのひめみこ)。彼女は大津皇子が十歳の頃、伊勢の斎宮となり、大和をはなれた。
天武天皇が死んだ後、大津皇子はこっそりと姉のもとを訪れた。たぶん身の危険を感じていたのだろう。自分の命の長くないことを予感していたのかもしれない。姉と夜っぴて語り合った大津皇子は、夜が明け切らぬうちに出発した。
我が背子を大和へ遣ると小夜更けて 暁露(あかときつゆ)に我が立ち濡れし (巻2 105)
ふたり行けど行き過ぎかたき秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ (巻2 106)
姉と弟は離ればなれに暮らしていたが、心はひとつだった。姉は弟が今生の別れを告げにきたことを知っていたのだろう。だから、弟の後ろ姿が見えなくなってからも、いつまでも夜露のなかに濡れて佇んでいた。
姉の不吉な予感は現実のものとなった。10月3日に大津皇子は謀反人の汚名を着せられて自害させられた。時に24歳である。日本書紀は大津の謀反を記しながらも、彼の人品をほめあげ、「詩賦の興り、大津より始まれり」と彼の文才を惜しんでいる。大津皇子の亡骸は飛鳥の地にではなく、遠く離れた二上山の山頂に埋葬された。
うつそみの人にある我や明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む (巻2 165)
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに (巻2 166)
姉は11月に斎宮の職を解かれ、飛鳥に帰ってきた。もはや父の天武はおろか、愛する弟も横死していない。その身よりのない淋しさはいかばかりだったことか。上の歌はその哀しみをよく伝えている。
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