橋本裕の日記
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私が通勤路にしている木曽川の堤防から、美しい山々の姿が見える。伊吹山や御嶽山などの霊峰をはじめ、頂上にお城をのせた金華山、そのほかの名も知らないたくさんの山。そのなかに私が「三輪山」と呼んでいる山がある。
丸い紡錘形の山の姿が、去年の秋に山辺の道を歩きながら眺めた三輪山にそっくりなのだ。だから毎日、この山の姿を眺め、大和の三輪山を思い浮かべる。そうするうちに、何故古代の人々が三輪山に信仰を寄せたのか、何となく分かってきた。やはりその緑豊かな優しい山の姿に魅せられたのだろうと思う。
三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなも隠さふべしや (巻1 18)
額田王が「近江に下りしとき」に作った長歌の反歌である。長年住み慣れた大和から近江への遷都は667年に行われたが、「書記」には「天下の百姓、都遷すことを願わず」と書かれている。百姓の中にはもちろん額田王らの王族たちも含まれている。
三輪山は額田王にとって毎日親しんだ故郷の山だったのだろう。大和への思いをこの山に託して、「雲よ、今一度山の姿を見せておくれ。情けがあるなら、隠さないでね」と訴えかけている。
翌668年1月に、中大兄皇子が皇位について天智天皇となる。同時に大海人皇子は皇太子の地位についた。この年の5月に天智天皇は多くの群臣や女官をともなって、蒲生野に遊猟にでかけた。このとき、すでに天智の妃になっていた額田王はかっての恋人であり夫であった大海人皇子とこんな歌のやりとりをしている。
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る (巻1 20)
紫草(むらさき)のにほえる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも (巻1 21)
夫である天智天皇を野守と呼ぶ額田王のおおらかさはどうだろう。大海人の歌はさらに大胆である。「書記」によれば、額田王は大海人の間に十市(とおち)皇女を設けている。そして十市皇女は天智の嫡子大友皇子の妃になり、やがて壬申の乱で夫を失い、自分の父に夫を奪われるという悲劇を体験することになる。
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