橋本裕の日記
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2001年02月08日(木) 十市皇女の悲劇

 671年12月3日に天智天皇が死んだ。天皇の詔によって、大友皇子が天皇の後継に決まっていたが、近江朝の宮廷は混乱した。なかでも名門貴族である大伴氏の一族ははただちに大和の旧邸にひきあげ、大海人皇子に肩入れする姿勢を見せた。

 吉野に隠れていた大海人皇子は6月になって動いた。そして激戦の末、大友皇子(弘文天皇)を破り、7月23日には彼を戦場で自害させた。大津の都はたちまち略奪・放火され、廃墟になったというが、妃であった十市皇女やその母の額田大王は無事に保護されたようである。こうして国を二分して戦われた壬申の乱は終わった。

 夫を失った十市皇女は父の天武天皇に連れられて、飛鳥に帰り、宮中にいたようだ。しかし、壬申の乱から6年後の678年7月7日の未明に、にわかに病を得て死んだ。彼女の異母兄である高市皇子が彼女のために悲痛な挽歌を3首残している。

  三諸(みもろ)の神の神杉夢にだに
  見むとすれどもいねぬ夜ぞおおき  (巻2 156)

  三輪山の山辺真麻木綿(まそゆふ)短かゆふ
  かくのみゆゑに長くと思ひき  (巻2 157)

  山吹の立ち儀(よそ)ひたる山清水
  酌みに行かめど道のしらなくに  (巻2 158)

 あの世ののことを黄泉という。山吹の黄色と山清水の泉が死の世界を象徴しているのだろう。それにしても、これらの歌にこめられた思いの何と深く静かで、かなしいことだろう。歌が美しいだけに、よけいに心にしみこんでくる。

 高市皇子は壬申の乱で父の大海人から全軍の指揮を任されていた。いわば十市皇女から夫を奪った張本人でもある。その心の痛みがいつか同情となり、やがては十市皇女への愛情へと変わっていったのだろうか。いや、そもそも二人は幼なじみであり、以前からの心の恋人であったのかもしれない。

 実はここに意外な史実がある。じつはこの日、十市皇女は天武の命によって、斎王として送られることになっていた。まさにその直前に彼女が死んだのである。そこに何か偶然ではない、十市皇女の意図が感じれなくはない。

 十市皇女は自害したのではないだろうか。そしてその事情を、高市皇子は知っていた。なぜなら二人は既に夫婦のちぎりを結んでいたと思われるからだ。「短かゆふかくのみゆゑに長くと思ひき」というのは「これだけの短いちぎりであったが、末永くと思っていた」ということらしい。

 そもそも天武は二人の仲を裂くために、十市を斎王にしたとも考えられる。北山茂夫氏はその労作「万葉集とその世紀」のなかで、この線にそって、それが政略上の理由からであったことを考証している。そうすると。娘の突然の死によって、二人の仲を裂くという天武の望みはかなえられた。しかしそれは思っても見ない悲しい結末だった。神の祭りは中止され、十市の葬儀が行われたが、その場に天武の姿もあったという。

 十市皇女の母は、かって山大兄(天智)と大海人(天武)の寵愛を受けた。その娘だけに、さぞや美しかったに違いない。万葉集中に彼女の歌は残っていないようだ。残念と言えば残念だが、それだけによけいにミステリアスな女性に思われる。

 ところで、母親の額田大王は長生きして、天武天皇の死をも見届けている。やがて持統天皇の世になって、彼女は弓削皇子から送られた歌に、こんな返しをしている。

  いにしへに恋ふらく鳥はほとほとぎす
  けだしや鳴きし我が恋ふるごと  (巻2 112)

 ほととぎすの声をききながら、額田王は自分の過去の恋の思い出にふけっている。しかしなんだか、とてもさびしい歌である。


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