橋本裕の日記
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728年に大伴旅人は中納言の地位のまま、太宰師に任ぜられ、奈良の都を離れた。このときすでに64歳であった。住み慣れた都を離れることは、老境にあった旅人にとって、つらいことだったにちがいない。しかも、太宰府に着いてすぐに、妻を失っている。
世の中は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり (巻5 793)
この歌にはこんな詞書きが添えられている。「過故重畳し、凶問累集す。ひたぶるに崩心の悲しびを懐き、独り断腸のなみだを流す・・・」異境の地で頼りにしていた妻に先立たれた旅人の心中はいかばかりだっただろう。
わすれ草わが紐に付く香具山の ふりにし里を忘れむがため (巻3 334)
わすれ草(ヤブカンゾウ)は黄色いユリ科の八重咲きの野草である。身につけると憂いを忘れさせてくれるという言い伝えがあった。そこで旅人も望郷の思いを断ち切るためにこの花を身につけた。しかし、あまり効果があったようには思えない。この後も、たくさんの望郷の歌が作られて行くからだ。
旅人が故郷とよぶ香具山の麓には青年時代の思い出が残っているのかも知れない。あるいはそこで亡妻の大伴郎女(いつらめ)と出会ったのだろうか。わすれ草の印象的な黄色い花は香具山の麓にも咲き乱れていたのではないだろうか。
ひさかたの天の香具山このゆうべ 霞たなびく春立つらしも (巻10 1812)
これは柿本人麻呂の歌である。旅人もこの歌を知っていて、口ずさんでいたに違いない。昨年の秋、私は大和を訪れ、甘橿丘から天香具山の麓の「ふりにし里」を眺めた。飛鳥川を眼下に眺めながら、旅人や人麻呂が歌に詠った光景をいつくしんだ。
ところで、旅人の赴任した太宰府には山上憶良や小野老といった名を知られた文人たちがいた。そしてやがて旅人を中心にして、太宰府に歌壇が作られていくことになる。
あおによし奈良の都は咲く花の 匂ふがごとく今さかりなり (小野老 巻3 328)
天ざかる鄙に五とせ住まひつつ 都の風習(てぶり)忘らえにけり (山上憶良 巻5 880)
わが園に梅の花散るひさかたの 天(あま)より雪の流れ来るかも (大伴旅人 巻5 822)
旅人や憶良は漢詩を作る教養豊かな知識人であった。その彼らが晩年になって歌を詠むことに熱中した。彼らの歌には人生への思いが託されている。「述志の文学」と言われるゆえんだが、老年とは思えない若々しい「青春」の香りに満ちているところがすばらしい。
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