橋本裕の日記
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大伴旅人が太宰府にいたのは3、4年だった。しかし、ここで培われた歌のポテンシャルが後に、旅人の息子の家持に受け継がれ、やがては万葉集という世界にもまれな大歌集を生み出す力になっていく。そうした意味でも、天の配剤によるこの希有な機会があったということは、私たちにとって幸せなことである。
730年10月、大納言に栄進した旅人がいよいよ都に帰ることになった。そのとき、児島という遊女が、見送りの人々の中から進み出て、「会うことに難きを嘆き、泪を拭ひて、みずから袖を振る歌」を送ったという。
やまと路は雲隠りたり然れども 我が振る袖を無礼(なめし)と思ふな (巻6 966)
衆人環視の中で、旅人は悪びれもせず遊女と別れを惜しみ、歌二首で彼女の気持ちに答えている。いかにも人情家らしい旅人のおおらかな人柄がしのばれる歌である。
大和道の吉備の児島を過ぎて行かば 筑紫の児島念(おも)ほえむかも (巻6 967)
大夫(ますらを)と念(おも)へる我や 水茎(みずくき)の水城の上に涙拭はむ (巻6 968)
水城(みずき)というのは、7世紀の後半に太宰府を海外の敵から守るために造られた堀で、今も福岡県太宰府市にその遺構が残っているという。たぶん旅人はこの歌を遊女に返しながら、あふれる涙を拭っていたに違いない。
太宰府の長官であり、武門の貴族の統領でありながら、旅人にはまったく貴人としての気取りがない。ただ相手をひとりの人間として、あたたかく抱擁する気持があるばかりだ。彼は生まれも育ちも一流だが、人間としても一流の人物だった。
生けるもの遂にも死ぬるものにあれば 今あるほどは楽しくあらな (旅人 巻3 350)
世の中を何にたとへむあさ開き 漕ぎ去(い)にし船の跡なきがごと (沙弥満誓 巻3 351)
旅人は自分や仲間たちの歌が後世に残るとは思っていなかっただろう。しかし後に残ったのは、旅人や彼の仲間たちの歌ばかりではない。名前もしらない農民や兵士、遊女の歌まで数多く残った。そしてそのことをなし遂げたのは、息子の家持だった。
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