橋本裕の日記
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2001年02月12日(月) 歌人旅人の最後

 大伴旅人は奈良に帰る途上、歌をいくつも作っている。

  吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は
  常世にあれど見し人もなし   (巻3 446)

 吾妹子(わぎもこ)というのは太宰府で亡くなった妻のことである。九州に下るときは一緒に眺めたのであろう。それが今は見る人がいないという。長旅の疲れもあったのだろうが、喪失感は奈良の家に帰って、さらに深くなる。

  人もなき空しき家は草枕
  旅にまさりて苦しかりけり  (巻3 451)

  吾妹子が植ゑし梅の木見るごとに
  心むせつつ涙し流る     (巻3 453)

 奈良の家に帰って眺めた梅は、亡き妻が植えたものだった。妻がいないので、花を一緒に眺めることが出来ない。しかし旅人がその花を眺めるのも、それが最後になった。やがて旅人は病を得た。

 そして病床にあった彼の脳裏に蘇ったのは、やはり天の香具山の麓の「古りにし里」であった。いまそこに萩の花が咲いている。

  指進(さしずみ)の栗栖の小野の萩の花
  散らむ時にし行きて手向けむ   (巻6 970)

 しかし、旅人は再び出かけることは出来なかった。病床で、「萩の花は咲いているか」と尋ねた後、息を引き取ったという。735年秋7月。享年67歳であった。

  かくのみにありけるものを萩の花
  咲きてありやと問ひし君はも  (余明軍 巻3 455)

 余明軍は大伴家に使えた資人である。彼は主人旅人を追悼する歌を6首、万葉集に残している。またこれより少し前に、太宰府の沙弥満誓から書簡と歌が届いていた。

  ぬばたまの黒髪変わり白髪(しら)けても
  痛き恋には会う時ありき   (巻3 573)

 満誓は旅人の人柄によほど惚れていたのだろう。そうでなければ「痛き恋」などという言葉をかっての上司に使うはずがない。旅人が死んだ佐保の邸に、14歳の家持とその弟の書持(ふみもち)、そして妹がひっそりと残された。


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