橋本裕の日記
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2001年02月13日(火) 防人の歌

 万葉集巻20には防人の歌が93首並んでいる。防人は崎守といい、九州、壱岐、対馬の防衛のため、東国から徴収された兵士である。任期は3年だったが、3年経って無事故郷に帰れるという保証はなかった。

  我が妻はいたく恋ひらし飲む水に
  影さえ見えてよに忘られず  (巻20 4322)

 水を飲もうとすると、そこに妻の顔が写っている。ああ、妻は私のことを恋いこがれているのだな、と思って男の胸も切なくなる。男の名前は若倭部身麻呂、遠江の国(静岡)に住んでいた農民である。

 古代の人々は、夢に恋しい人の姿を見ても、それは恋人の魂がやってきたからだと考えた。だから、「夢に見る」と言って、「夢を見る」とは言わなかった。水に浮かんだ妻の面影も、実際妻の魂がこちらにやってきたと考えた。

  水鳥の立ちの急ぎに父母に
  物言はず来にて今ぞ悔しき  (巻20 4337)

 防人に指名されれば、有無を言わせず、農民は九州へと駆り立てられる。妻や家族と別れさえ惜しんでいる暇はなかった。上の歌は駿河の国(静岡)の有渡部牛麻呂のものである。彼も又、運悪く防人に選ばれ、出発をせき立てられたのだろう。

  我が母の袖もち撫でて我がからに
  泣きし心を忘らえぬかも  (巻20 4653)

 上総の国、物部乎刀良(おとら)の歌である。家を立つ間際、母親が自分の袖にすがりついてきて、泣いた。その深い心が忘れられないと青年は歌う。彼にはまだ妻や恋人はいなかったのかもしれない。つぎは、相模の国の丈部造人麻呂の歌。

  大君の命畏(かしこ)み磯に触(ふ)り
  海原渡る父母置きて  (巻20 4328)

 戦時中、私たちの父や祖父も赤紙一枚で戦場にかり出された。そして多くの人が故郷を遠く離れた異境の地で果てた。その遺体の多くは山野や海底に白骨として残されている。

 たとえば、沖縄の激戦地であった摩文仁の丘の断崖下にはいまも手つかずの遺骨が多数眠っている。そこは50年間遺棄され続けたゴミで埋もれている。毎年遺骨収集奉仕団が結成され、ごみをかき分け、異臭の中で、砲弾や手榴弾、有毒なハブの恐怖にさらされながら、遺骨収集を続けているという。

(今年も今月末に全国から100人あまりのボランティアが現地に集合して遺骨収集作業をするそうです。83歳の老人から11歳の少年まで、すべて参加者の自己負担で。くわしくは昨日の朝日新聞朝刊「声」の欄の「ごみに埋まる沖縄戦の遺骨」をごらんください)

 さて、万葉集に93首もの防人の歌を収めたのは、大伴家持である。755年、彼は兵部省の要職(少輔)にあった。彼はあらかじめ東国の国府に、防人たちの歌を集めて提出するように命じた。家持はそれを万葉集の巻20に、提出順に並べた。

 彼自身も、「防人の情(こころ)となりて思いを陳べて作る歌」をかなり作っている。そのなかの一首をあげておこう。

  海原に霞たなびき鶴(たづ)が音(ね)の
  悲しき宵は国方(くにへ)し念ほゆ   (巻20 4362)


橋本裕 |MAILHomePage

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