橋本裕の日記
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小学校の頃、「日本誕生」という映画を見て、最後のヤマトタケルの尊が死んで白鳥になるところにとても感動した。日本人は死んで鳥になると考えていた。すばらしい死のイメージだと思う。
ところで、死んだら鳥になるという発想はどこからきたのだろう。私はこれには「風葬」という古代の習慣が影響しているのではないかと思っている。死体を野にさらすことによって、鳥たちがそれを片づけてくれる。死体は鳥たちの餌になることによって、彼らに同化するわけだ。
「風葬」というのは極端だが、最近「自然葬」が見直されてきている。「自然葬」についてはHPがたくさんある。たとえば、http://www.age.ne.jp/x/mumyouan/f/fn-8.htmlを覗いてみると、こんなことが書かれている。
「本当に完全に誰の目にも触れなければ、あなたが海水浴や釣りに行った時にそっと水中に故人の遺灰を葬ってもいいわけである。見た事もあるだろうが海上での散灰は今までわりと派手に撒いていた。しかし、そんなふうにバラバラとは撒かず、水に溶ける無害な紙に包みそっと水中に手放せば、多少人のいる川や海でも目立たないのである。また骨粉は水に沈むので、水槽に魚を飼っている人は水槽のサンゴなどに交ぜてもいいだろう。故人は魚たちの体の一部となるのである。また自宅でガーデニングをやっている人は庭の地中や鉢植えの中に骨粉をまぜても良い。そうすれば故人の一部が花となり木となるのである。さらにオシャレで、なんとも雄大な方法に「間接鳥葬」がある。言うまでもなく日本では本格的な鳥葬(鳥に死体を食べさせる葬儀)は出来ない。そこで米粉などの穀類に骨粉を練り込み、小さいダンゴ状にして野鳥にあげるのだ。こうすれば故人は空を飛ぶ鳥の一部になる」
現在の葬式は寺と葬儀屋がとりしきり、厳粛な人の死を商売の道具にしている。私は昨日の日記に書いたように「風葬」を望んでいるが、不慮の事故や病気でそれが無理な場合は「自然葬」がいいと思っている。
妻にはすでに「死んだら葬式はいらないよ。とにかく坊主はごめんだね」と言ってある。火葬場から骨を貰って帰ってきたら、こまかく砕いて木曽川か、私の故郷の九頭竜川にでも流して欲しい。法律的には何の問題もないようだ。
私が風葬に関心を持つようになったのは、10年ほど前にNHKの番組で、モンゴルの風葬について知ってからだ。そのとき、モンゴルの人々の生活や人生の終末の迎え方に共感した。それは深沢七郎の描いた「楢山節考」のおりん婆さんの、潔い、さわやかな世界にも通じている。そして、現代日本に生きる私たちの、我欲にまみれた人生とはずいぶん違っている。
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