橋本裕の日記
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2001年02月18日(日) アメリカの大学

 以前に日本の大学の閉鎖性について日記に書いた。それでは、アメリカの大学の場合、一体どうなっているのか。その一例を、アメリカの大学に学んでいる人の体験記から引いておこう。最近、私がインターネットで読んだ文章である。

「アメリカのカレッジのクラスでは、10代から60代までの多様な経歴の持ち主が同じ授業を受けています。たった人口1万人ほどの私が住むこの街に、立派なカレッジがあることにも、また、どんな人でも受講することができることに、この国の懐の深さを感じます。
   
 いつからでも、やりたいことを始められる。カレッジは希望でいっぱいです。4年生の有名大学への進学も、夢ではありません。編入することができるからです。カレッジでとった単位を、4年生大学編入に生かすことができます。働きながら通う人も多いですし、ミッションやミリタリーなどを経験して、外国生活を体験済みの人も多くいます。年齢や経歴がさまざまですから、意見もさまざまですし、いろいろな話を聞くチャンスにも恵まれています。おのずと視野も広がります。
   
 授業料も1科目1学期数千円からと、非常に安いです。講座の種類も、社会科学、生物学、機械、音楽、スポーツ、芸術などさまざまです。日本では、大学教育の場がまだまだ閉ざされていると思います。一部の若者、限られた受験の一時期にしかチャンスがないのです」

 こうした文章を読んでいと、日本の大学にくらべて、アメリカの大学がいかに市民生活に根付いているかがわかる。日本の大学の後進性は、日本社会の後進性であり、私たちの生き方の貧しさの現れのように思われてくる。

 私が住んでいる一宮市は人口が30万人もありながら、市民が気楽に学べるような大学は一つも見当たらない。目立つのはパチンコ屋ばかりである。いや、一宮市に限らず、日本の都市はどこでも同じような状況ではないだろうか。

 アメリカの町は教会を中心にして成り立っていたという。ところがやがてそれが裁判所に取って代わられた。しかし、近い将来、裁判所にかわって、大学に人々の心のよりどころが向かうのではないだろうか。日本も是非そうなってほしいと思っている。


橋本裕 |MAILHomePage

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