橋本裕の日記
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2001年03月09日(金) ペリクレスの子供たち

 アテネに民主制が確立したペリクレスの時代(紀元前5世紀)に、アテネは最も繁栄し、黄金期を迎えた。ペリクレスの父はアテネの政治家であり、ペルシア戦争の将軍の一人。母は、改革者として有名なクレイステネスを出しているアテネ屈指の名門貴族の出身だから、彼はまさにアテナイの政治家になるに十分な環境に生まれている。

 しかし、彼のような偉大な人物でも、家庭生活には恵まれなかった。浪費癖のある長男クサンティッポスは、父親の名前で借金して彼を困らせた。倹約家の彼は息子の借金を肩代わりするのを拒み、裁判沙汰になったが、長男はこれに怒って、父親の悪口や内緒の話を言って回わり、疫病で死ぬまで父をうらんでいたという。

 もう一人の息子、次男のパラロスも疫病で死ぬ。次男が死んだとき、冷静で取り乱したことのなかったペリクレスが、息子の遺体を花で飾り、人目も気にせず泣いたという。こうして彼には跡継ぎの息子がいなくなった。

 ペリクレスの妻も浪費家だったようで、結局ペリクレスはこの妻と離婚して、高級娼婦アスパシアを自分の愛人にして同棲生活を始める。一夫一婦制のギリシャでは複数の妻を持つことはあり得なかった。ペリクレスは彼女をとても愛していたようで、彼女が冒涜罪で訴えられたときには、法廷で彼女を涙ながらに弁護したという。

 ギリシャの高級娼婦は、男たちとともに政治の話、哲学の話などに加わり、会話によって男を楽しませる事が重要だった。アスパシアはミレトスの出身でアテネ人でなかったが、知性と教養に優れていた彼女の元には多くの男たちが訪れ、一種の文芸サロンだった。

 ソクラテスも弟子たちを連れてアスパシアのもとにかよったし、ペリクレスの後世に残る名演説の草稿を書いたのは彼女だという逸話もある。彼は彼女のために妻と別れ、このミトレス出身の娼婦と同棲生活をはじめたわけだが、アテネの名門に生まれた最高指導者のこの脱線ぶりは、さぞかしアテネ市民を驚かせに違いない。

 やがてペリクレスと彼女との間に、ペリクレスという父親と同じ名前の息子ができるが、ペリクレス自身が定めた市民権法に、「アテネ市民とアテネ市民から生まれた女性との結婚によって生まれたものだけが、アテネ市民になれる」という一条があって、ペリクレス2世はアテネ市民になることができない。

 しかし、アテネ市民は彼の業績を勘案して、ペリクレスがこの世を去る前に、特別にペリクレス2世に市民権を与えた。このペリクレス2世はペロポネソス戦争に将軍として参加するが、死亡した兵士の死体を回収しなかったと訴えられて、死刑にされた。こうして偉大な政治家ペリクレスの血筋が絶えてしまった。


橋本裕 |MAILHomePage

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