橋本裕の日記
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730年(天平2年)太宰府師であった大伴旅人が、任を全うして、瀬戸内海を通り、帰郷する。そのとき太宰府から従ってきた随員の歌が万葉集に残っている。そのなかの一首。
家にてもたゆたう命浪の上に 浮きてし居れば奥処(おくが)知らずも (巻17−3896)
「家にいてさえも、落ち着きなく揺れ動いている私のこころである。まして、こうして慣れない船旅をして、波の上に命を浮かべていると、その心細さは底知れないものだ」読み人知らずの歌だが、生に対する深い、根源的な不安感がうたわれていて、なかなか見事だと思う。
この歌は折口信夫が絶賛していた。私は彼に教えられて、この歌の底知れぬ魅力を知ったのだが、案外、知らない人が多いのではないだろうか。もう一首、私が愛唱する歌を万葉集から引いておこう。
もののふの八十(やそ)宇治川の網代木(あじろぎ)に いさよふ波のゆくへ知らずも (巻3−264)
こちらはよく知られた柿本人麻呂の名歌である。網代木にせかれて揺れ動く波の姿をみつめているうちに、いつかそれが自分の心のありさまに重なってくる。人生という行方もわからない旅を生きる私たちだれしもが経験する、はるかな思いがここに歌われている。
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