橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
エーゲ文明は前20世紀頃から前12世紀頃までエーゲ海を中心に栄えた青銅器文明で前期のクレタ文明と後期のミケーネ文明からなる。この文明の内容を最初に明らかにしたのが、ドイツ人のシュリーマン(1822〜90)だった。
シュリーマンは幼少の頃読んだ本のなかで、トロヤ落城の挿し絵をみて、その遺跡の発掘を夢見るようになったという。しかし、発掘には莫大な費用がかかる。ドイツの北部の小さな村で貧しい牧師の子として生まれたシュリーマンにとって、その夢を実現することは容易ではなかった。
母の死、そして父親が牧師の職を失って一家が離散するという逆境の中で、シュリーマンは雑貨屋の小僧、外国船のボーイを経て、オランダの商店に勤め、食事も切りつめるほどの苦労しながら、18カ国語をマスターし、その語学力を武器にして頭角を現して行った。
24才頃ロシアに移住し、クリミア戦争や南北戦争の状況を利用し、インド藍や木綿の取り引きで成功して巨万の富を築いた。そして40才過ぎに事業から一切手を引き、ギリシア語と考古学の研究の後、1871年、49歳になったシュリーマンは、ついにヒッサルリクの丘に立った。
ホメロス(前8世紀頃 )は叙事詩「イリアス」のなかで、トロヤ戦争を美しく描いている。トロヤの王子パリスがスパルタの王妃ヘレネを誘拐したことから、ミケーネの王アガメンノンを指揮者とするギリシアの英雄たち(例えばアキレウス)がトロヤに遠征し、10年の包囲の末、有名な”トロヤの木馬” の計略を使って落城させ炎上させた。
シュリーマンはこのホメロスの詩を真実だと確信していた、しかし当時の常識ではこれは伝説であると考えられていた。しかもシュリーマンが学界の定説に反して海に近いヒッサリクの丘をトロヤと考えて発掘を始めたので、学者たちの反応は冷ややかだった。発掘に参加した現地の150人の労働者たちも、最初はシュリーマンに懐疑的だったという。
しかし、2年後の1873年の5月、ついに地下から大きな城壁があらわれた。神殿や宮殿があらわれ、黄金の王冠、首かざり、耳かざり、指輪がぞくぞくと出てきて、学者たちを驚かせた。シュリーマンはこれに勇気づけられて、1876年以来ミケーネの発掘に取りかかり、ここでもおびただしい副葬品を発見した。特に「黄金の仮面」をはじめとする黄金製品は人々を驚かせた。さらに彼はクレタ島の発掘に取りかかったが、1890年に69歳で亡くなった。いま彼はホメロスの国、ギリシアのアテネで永遠の眠りについている。
シュリーマンはトロヤで発見したものはドイツに、ミケーネで発見したものはギリシアに、全部、寄付したという。それらの考古学の歴史を変えた至宝の数々は、ベルリンとアテネの博物館で、今も多くの人々の目を楽しませ、古代への夢を育んでいる。
シュリーマンは40歳までの半生をお金を稼ぐために費やした。そして残りの半生で、そのお金を使って、彼の少年時代の夢を着々と実現した。人は何のためにお金を稼ぐか、そして何のために生きるか、彼の人生もまた一つの魅力的な答えだといえる
|