橋本裕の日記
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2001年04月22日(日) 人生の短さについて

 セネカ(BC4〜AC65)の「人生の短さについて」(岩波文庫)を読んだ。今日はこの本の紹介をしよう。セネカは2000年ほど前のローマの文人である。あの有名なネロ皇帝の家庭教師をしていたこともある。彼のこの本は前から一度読んでみたいと思っていた。

 セネカによれば、アリストテレスのような哲学者をはじめ、多くの人が「人生は短い」と嘆いているが、それは間違いで、「人生は十分に長く、その全体が有効に使われるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富にあたえられている」という。

「われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく、それを濫費しているのである」

 髪の白さや皺の多いからといって、その人が長く生きたということにはならない。ただ「長くあった」ということでしかない。時間は無形なものであり、肉眼には映らないから、人はそれを見失う。そして、単に髪が白い人は、人生を長く航海したというよりも、人生に「長く翻弄された」というべきだと、セネカは主張する。

 それでは何が人生をかくのごとく短くするのか。セネカはそれは「多忙」のせいであるという。多忙な人は生活を失い、そして人生さえ失っている。しかし彼ら多忙に追われている人たちは、終点に至らなければそれがわからない。

「君は多忙であり、人生は急ぎ過ぎ去っていく。やがて死は近づくであろう。そして好むと好まざるとにかかわらず、遂に死の時を迎えねばならない」「なかんずく、最も惨めな者といえば、自分自身の用事でもないことに苦労したり、他人の眠りに合わせて眠ったり、他人の歩調に合わせて歩き回ったり、何よりもいちばん自由であるべき愛と憎とを命令されて行う者である」「高官や名声は人生を犠牲にして獲得される」

 人生は「過去」「現在」「未来」の三つの時にわけられる。しかし、多忙の人たちはただ現在の時だけに関わりを持ち、しかもそれは捕らえることができないほど短く、その短い時でさえも、方々に気が散っているので、知らぬ間に取り去られてしまう。こうして、人生はいやが上にも短くならざるを得ない。

 過去を忘れ現在を軽んじ未来を恐れる者たちの生涯は、きわめて短く、きわめて不安である。これに対して、「万人のうちで英知に専念する者のみが余裕のある人である」とセネカは言う。

「このような者のみが生きていると言うべきである。それは彼らが自己の生涯を立派に守っているからだけではない。彼らはあらゆる時代を自己の時代に付け加える。彼ら以前に過ぎ去った年月は、ことごとく彼らに付加されている。我々がひどい恩知らずでないかぎり、かの聖なる見識を築いてくれた最もすぐれた人たちは、われわれのために生まれたのであり、われわれのために人生を用意してくれた人々であることを知るであろう。他人の苦労のおかげでわれわれは、闇の中から光の中へ掘り出された最も美しいものへと運ばれる」

 私たちは自分の肉体を分かち与えてくれた両親を自由に選ぶことはできない。それは偶然によって人間に与えられたものだからだ。しかし私たちの魂は、自己の裁量で、誰の子にでも生まれることができる。そこには「最もすぐれた天才たちの家庭」がいくつかある。

 セネカは彼らを友に選び、彼らとともに人生を考え、有益な助言を得ようとする者は、彼らから「永遠の財産を受け継ぐ者」であり、もはや「多忙によって人生をうしなうことはない」と書いている。そして、そういう人々にとって、人生は「最も偉大なことをも完成できるほど豊富にあたえられている」のである。


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