橋本裕の日記
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2001年04月23日(月) |
人間はすぐに壊れる容器 |
「人生の短さについて」(岩波文庫)をはじめ、セネカの数々の作品の翻訳者として知られる茂手木元蔵(もてぎ・もとぞう)さんは、もともとアリストテレスの研究者だった。ところがラテン語を勉強するためにいわば趣味でセネカの文章を訳しているうちに、すっかり彼の文章の魅力にとりつかれてしまったのだという。彼自身の文章を「セネカ入門 〜セネカと私〜」(東海大学出版会1994)から引用しよう。
「私は学生時代からとくにアリストテレスの哲学を学び、かつそれを教えて飯の種にしてきた。しかし正直に告白すると、この哲学の論理の緻密さには頭では感心したが、どうも、心では感動したことがない。自分の勉強不足と非才が原因と思うが、何十年もそれと交わり、論文も書いたり本も出した。しかし結局その哲学は理解できず、正直言って心の底から感動もできなかった」
「ところが中年以降、並行して、むしろ趣味として読み始めたセネカには、アリストテレスにない面白みを感じ、長年興味も失わずに翻訳することが出来た。とくに感動したのは、わが息子を失った母親マルキアにあてて書いた『心の慰めについて』であった」
そこで、セネカの「心の慰めについて」から、いくつかの文章を引用しよう。残念ながら、私の手元にその本がないので、茂手木さんの「セネカ入門」からの引用である。
「人間とは一体何でしょうか。どっちへ揺すっても、どっちへ投げても、すぐに壊れる容器です。あなたを粉微塵にするには大風の吹く必要はありません。どこに突き当たろうとも、あなたは自ら解体するでしょう。人間とは一体何でしょうか。それは弱く壊れやすい肉体です。しかも裸のままの肉体で、その自然の状態たるや無武装であって、他のもの援助を必要としていますし、また運命のあらゆる虐待の前に投げ出されています」
セネカは、私たちはだれも矢や槍の飛び交う戦場にいるようなもので、もしだれかが倒れたら、その矢は自分をねらったものだと思わなければならないという。そして、「誰かに起こりうることは、誰にでも起こり得る」という一句を引用する。死は万人にとって逃れるすべのない運命である。しかし、だからと言って、むやみに恐れる必要はない。
「次のことを考えて下さい。死んだ者はどんな災いにも悩まされないこと、地獄は恐いものだとわれわれに思わせる話は寓話に過ぎないこと、死人には暗闇も牢獄も灼熱の火の河も待ち受けていないこと、さては裁く人も裁かれる人もいないし、再び暴君たちにあうこともないこと、そういったことです。これらは詩人たちの戯れの作り事で、無駄な恐怖を起こさせて我々の心を苦しめているのです・・・死はあらゆるものからの解放であり、われわれの不幸がもうそれ以上出ていくことがない限界です。それは、われわれが生まれる前に横たわっていた平安のなかに、われわれを連れ戻すのです」
「どうかこれからは、あなたの息子を評価するのに、もろもろの美点をもってし、年齢をもってしないようにしてください。そうすれば彼は長く生きたことになります。・・・彼は永遠に生きており、今ではいっそう外部の重圧から一切解放され、なにごとも自分の意のままです。そこには、この世の混乱と暗黒を脱して、清浄にして純粋なものを見にいこうとする魂を、永遠の平安が待っているのです。・・・われわれ、幸福にして永遠を得た魂たちも、宇宙を新しく組み立てることが神のみ心に適う時が来たならば、その時は自らも、この巨大な破滅への微少な付け足しとして、昔の元素に回帰することでしょう」
セネカはアリストテレスがあまり好きではなかったようだ。「人生の短さについて」の冒頭でもアリストテレスを批判しているし、先輩のストア派哲学者セクスティウスを賞賛した文章の中でも、「ある人たちは名前が有名でも、その書いたものになると力がないものがあります。秩序が立ち、論究はあり、議論もありますが、心を持っていないので、心を呼び覚ましてはくれません」と書いている。セネカの文章を続けて引用しよう。
「ところがセクスティウスを読むと、君はこう言うでしょう。『彼は生存しており、活力があり、自由であり、人間を越えている。そして本を閉じるときは、私を勇気でいっぱいに満たしてくれる』・・・彼の書き物を読むとき、僕の心がどんな状態にあるかを正直に申します。僕はすすんであらゆる出来事に挑戦したい。そしてこう叫びたい。『運命よ、お前はどうしてぐずぐずしているのか。戦おうではないか。見よ、私はお前を待ちかまえているのだ』どこで自分を試すか、どこで自分の強さを示すかを探し求める人の心を、僕は自分の心とします」(道徳書簡集64)
セクスティウスをセネカと読み替えることに、多くの人が同意するのではないだろうか。セネカの文章は、何よりも私たちの心を、「勇気でいっぱいに満たしてくれる」のである。
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