橋本裕の日記
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2001年05月03日(木) |
老年の豊かさについて |
キケロ(前106〜前43)の晩年の作品に「老年の豊かさについて」がある。たまたま行きつけの図書館に置いてあったので、借りてきて読んでみた。キケロはセネカとならぶローマ時代の文人である。その文章はラテン語の模範とされているが、私はラテン語は読めないので、八木誠一・八木綾子さんの訳で読ませてもらった。
キケロは老年は決してわびしいものではなく、「老年には老年の楽しみがある」という。それは、「老人は欲情や野心や敵意など、諸々の欲望に仕えることを終えて、自分を取り戻し、世に言う如く自分らしく生きるようになる。まして、研究や学問というような味わい深い世界を持っていれば、ひまな老年以上に楽しいものはない」からだと言う。
自然の中で、自然に従って生きることのすばらしさをキケロは説く。たとえば、「農作物を作る楽しみはどんなに年をとっても妨げられないし、賢者の生に最も近いように思われる。楽しみは大地との取引にあるのだ。・・・と言っても、喜ばしいのは実りばかりではない。大地自身の働きと本性だ」と書き、自然の営みを感動の籠もった筆で生き生きと描き出し、さらに、人の一生をもそうした自然の営みのなかに置いている。
「私の考えるところでは、何であれ、求めるものを手に入れることが、満ち足りた人生をもたらすのは確かだ。幼年時代には幼年時代で手に入れたいものがある。でもそれは若者が欲しがるものとは違う。青春には青春の追求するものがある。でもそれは落ち着いた中年が求めるものと同じではない。中年が必要とするもの、しかしそれは老人の要求と同じではない。老年には人生最後の欲求がある。こうして、結局のところ、先立つ時期の欲求がそれぞれ消滅して行くように、老年の欲求も消滅する。こうして人は人生に満ち足りる。死の時期が熟するのだ」
「最高の指導者である自然に従い、神に対するかのように服従している点でこそ、私は賢明なのだ」とキケロは考えていた。そして、「自然にしたがって起こることはすべて善とみなされるべきだが、老人にとって死より自然にかなったことがあるだろうか。それはたとえてみれば、よく熟した果実がひとりでに落ちるようなものだ。・・・こうして私はこの世から立ち去るのだが、この世は我が家というより仮の宿なのだ。つまり自然は私たちに、永住するためではなく、一時の滞在のための宿を与えてくれたわけだ」と語る。
キケロやセネカの文章を読んで感じたことは、彼らが「死をみつめ、それを自然な過程として受容している」ということだ。そして人生のあらゆる過程が、死へと成熟していく過程として捕らえられている。訳者の八木誠一さんは「あとがき」の中で「ラテン文学は、ギリシャ文学とは違い、あまり青年向きではないように思われる。情熱と冒険というよりは、経験と常識の産物で,華麗ではないが滋味があり、年輩の人の静かな共感を呼ぶ」と書いている。
ギリシャびいきの私は、おおよそギリシャの通俗版でしかないローマ文化に対して、内心侮蔑の念を持っていた。香り高いギリシャ文化の静謐な美しさに比べて、ローマの文化はあまりに浅薄で仰々しく、精神性の希薄さを感じさせる。そして、その悪趣味に辟易しながら、「ギリシャになくて、ローマにあったものが一つだけある。それは度を外れた悪徳だ」と考えていた。
ところが、キケロやセネカを読むうちに、ローマにはギリシャとは違った英知が存在したことに気付いた。それはたぶん、私の人生が彼らの言葉の「滋味」に感応できるまでに成熟したということかもしれない。私もいささか老境に入りかけてきたと言うことだろう。
(なお、北さんがHPに「ローマ人の物語を読む」を連載している。キケロやセネカの生きた時代の背景がわかりやすく紹介されていて、たいへん参考になった)
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