橋本裕の日記
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2001年05月23日(水) |
明治憲法下の昭和天皇 |
明治憲法下の日本は「神聖にして犯すべからざる」天皇によって統治される絶対君主制の国だった。明治憲法には内閣や総理大臣の規定はない。内閣は単に天皇直属の執行機関であり、首相はたんなるそのメンバーのなかの長というだけで、もちろん各大臣を任免する権限はない。
裁判も本来は天皇が行うべきもので、裁判所が代行するだけである。また、天皇は陸海軍を統帥する。他国と戦争を始めるのも止めるのも天皇の大権である。要するに、立法、行政、司法、軍事の権力は天皇の下に分立し、それらを統括する最高権力者が天皇であった。
こうした絶対君主制はローマ帝国や中国の皇帝、フランスの絶対王制がそうだったが、19世紀も半ばを過ぎて歴史に登場するのはいささか時代錯誤だとしかいいようがない。このあたりのことは、昭和天皇も心得ていて、「二・二六事件」のときの鎮圧命令と終戦の時の「聖断」を別にすれば、彼自身はあたかもイギリス流の立憲君主として振る舞っていた。つまり、「君臨すれども統治せず」の原則をかたくない守ろうとした。
美濃部達吉の「天皇機関説」が問題になり、軍部や議会で彼が弾劾を受けていたときも、天皇は「彼のような立派な学者を排除するのはよくない。私は彼の説が間違っているとは思わない」と後の首相で当時侍従長だった腹心の鈴木貫太郎に述べている。
しかし、天皇がいかに立憲君主のように振る舞おうとも、明治憲法はそのように規定していなかった。その結果生じたことは、最高権力の空白という異常な事態だった。そして、この空白をついて、軍部が権力を壟断することになった。昭和天皇はすぐれた人格者かも知れないが、最高権力者としての自覚に欠けるところがあった。
最高権力の所在を明確にすることは、責任の所在を明確にすることでもある。先の戦争の反省を求めるならば、まずこのことであろう。この点から考えて、現在の日本の状況が戦前よりもどれほどましなものか、疑問を感じないわけにはいかない。
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