橋本裕の日記
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2001年05月28日(月) 「もののあわれ」と文学

 源氏物語の「蛍の巻」に、「さてもこのいつはりどもの中に、げにさもあらむとあはれを見せ、つきつきしくつづけたるは、はかなしごととしりながら、いたづらに心動き」とある。物語が人の心を握えるのは「いつわり」の中に、「まこと」をあらわすからである。読者はそれをいつわりごとと知りながら、心を動かされずにはいられない。

 古今集の序に「やまと歌は人の心を種として萬の言の葉とぞなれりける」とあるのも同様であろう。心がモノにふれてあらわれたのが歌であり、その偽らざる人間の感情の表現にこそ歌のいのちが宿る。

 江戸時代の国学者・本居宣長(1730〜1801)は、「源氏物語」の精神は「もののあわれ」だと書いている。喜びでも悲しみでも、その感情がきわまったときに「あっ」と叫ぶ。あわれというのは、この「あっ」というときの心の声にあるのだという。「徒然草」の中に私の好きな文章がある。

 「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつる習いならば、いかに、もののあわれもなからん。世はさだめなきこそ、いみじけれ」(7段)

 「もののあわれ」は「源氏物語」や「和歌」に限らず、あらゆる文学の根底にある精神だと言ってもよい。しかし、この文学精神をもっとも純粋に、一途に表現しているのが、古代や中世の日本文学であることはまちがいない。


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