橋本裕の日記
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2001年06月06日(水) |
小さなものを慈しむ心 |
森本哲朗さんが「日本語 根ほり葉ほり」の中で、小さなものを慈しむ心を日本人特有の美学だとして、「1メートルの美学」「床の間の美学」と呼んでいる。そして、その代表として、芭蕉の俳句をあげている。
あけぼのやしら魚しろきこと一寸 よくみればなずな花さく垣根かな 山路きて何やらゆかしすみれ草
たしかにこうした美を詠んだ芭蕉と句材の距離は、森本さんがいうように、せいぜい1メートルに足りない。森本さんの文章を少し引用してみる。
「日本人は小さなもの、身近なものに対しては、きわめて繊細な感覚を育ててきたが、それを大局的な視野にまで拡げることができなかった。つまり巨視的な視野が完全に欠落することになったのである」
「日本人の美意識はこのようにじつに狭い領域、せいぜい1メートル四方だけに限られている、といってよい。その先はもう目に入らない。だからまわり全体を秩序だった空間にし、居心地のよい環境にしようなどという考えはほとんど見られないのである」
森本さんの指摘になるほどと頷かざるをえない。日本の街並みの雑然とした無秩序や、公共空間の貧弱さ、品の悪さを見るとき、「1メートルの美学」の限界をまざまざと実感される。
しかし、芭蕉の句について言うと、彼は小さなものばかり詠んでいたわけではない。たとえば、「奥の細道」の中の句に、
熱き日を海に入れたり最上川 荒海や佐渡によこたふ天の川
など、雄大な景観を詠んだものがある。さらに芭蕉の場合、たとえ眼前の小さな世界を詠んでいても、その歌いぶりは雄大である。空間的に狭小にみえても、そこを起点に、その広がりは無限大で、時間的にも遙かなものがある。
古池やかわず飛び込む水の音 夏草やつわものどもが夢の跡
私はあえて、小さなもの、身近なものを慈しむ日本人の美学を日本人の美しい伝統として残して行きたいと思う。そして「1メートルの美学」ではなく、「1メートルからの美学」「床の間からの美学」を提唱したい。
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