橋本裕の日記
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2001年06月15日(金) 金子みすヾの詩(2)

 金子テルが本屋の店番をしながら、「みすヾ」というペンネームで詩を書き始めたのは、大正12年(1923年)20歳の頃だという。そして、「童話」「婦人倶楽部」「婦人画報」「金の星」の4誌に投稿したところ、なんと全部に使用された。その感激を、みすヾは「童話」の通信欄に次のように書いている。

「童謡と申すものをつくり始めましてから一ヶ月、おずおずと出しましたもの。落選と思い決めてそれを明らかにするのがいやさに、あぶなく雑誌を見ないで過ごすところでした。嬉しいのを通り越して泣きたくなりました。ほんとうにありがとうございました。下関市、金子みすヾ」(「童話」大正12年11月号)

「金の星」の選者は野口雨情だが、残りの雑誌の選者は、西条八十だった。みすヾは西条八十にあこがれていた。それだけに、彼に認められた喜びは大きかった。「童話」に載った「お魚」という詩を紹介しよう。

   お魚

   海の魚はかはいそう

   お米は人に作られる、
   牛は牧場で飼はれてる、
   鯉もお池で麩を貰ふ。

   けれども海のお魚は
   なんにも世話にならないし
   いたづら一つしないのに
   かうして私に食べられる。

   ほんとに魚はかはいさう。

 処女作はすべてを語ると言うが、金子みすヾのこの作に、この言葉はぴったり当てはまる。選者の西条の評を引いておこう。

「大人の作では金子さんの『お魚』と『打ち出の小槌』に心を惹かれた。言葉や調子の扱い方にはずいぶん不満の点があるが、どこかふっくりした温かい情味が謡全体を包んでいる。この感じはちょうどあの英国のクリスティナ・ロゼッティ女史のそれと同じだ。閨秀の童謡詩人が皆無の今日、この調子で努力して頂きたいと思う」

 みすヾはこの評に感激して、せっせと詩を書いて西条が選をする「童謡」に送った。彼女の誌はそれから毎号3,4編は載るようになり、西条の評価はますます高くなった。みすヾはたちまち若い投稿詩人たちの憧れの星になった。


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