橋本裕の日記
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2001年06月20日(水) 金子みすヾの詩(7)

 みすヾが憧れの師、西条八十との対面をはたしたのは、昭和2年の夏、金子みすヾ24歳の時だった。八十から旅の途中下関駅に立ち寄るという電報が届いて、みすヾは駆けつけた。そのときの印象を八十は昭和6年9月号の「蝋人形」に、「下関の一夜―亡き金子みすヾの追憶」と題して書いている。

「夕暮れ下関駅に下りてみると、プラットホームにそれらしい影は一向見当たらなかった。時間を持たぬ私は懸命に構内をさがしまわった。ようやくそこの、ほの暗い一隅に、人目をはばかるように佇んでいる彼女を見出したのであったが、彼女は一見二十二三歳に見える女性でとりつくろわぬ蓬髪に普段着のまま、背には一二歳の我が子を背負っていた」

「作品においては英のクリスティナ・ロゼッティ女史に劣らぬ華やかな幻想を示していたこの若い詩人は、初印象においては、そこいらの裏町の小さな商店の内儀のようであった。しかし彼女の容貌は端麗で、その目は黒曜石のように深く輝いていた」

 二人が会っていたのは、ほんの短時間だったようである。みすヾは「お目にかかりたさに、山を越えて参りました。これからまた、山を越えて家に戻ります」と言うだけで精一杯だった。「寡黙で、その輝く瞳のみがものを言った」と八十は記している。

「おそらく私はあの時彼女と言葉を交わした時間よりも、その背の嬰児の愛らしい頭を撫でていた時間の方が多かったであろう。かくして私たちは何事も語る暇もなく相別れた。連絡船に乗り移るとき、彼女は群衆の中でしばらく白いハンケチを振っていたが、まもなく姿は混雑の中に消え去った」

 大正15年にみすヾは勧められるままに書店の番頭候補の宮本啓喜と結婚し、やがて女児をもうけたものの、夫婦の仲は生活は荒んでいた。夫は家庭を顧みず、遊郭通いにあけくれ、彼女は夫の放蕩によってもたらされた病気(淋病)の苦しみと戦っていた。そうしたなかで、師西条八十との対面は、ひととき心が浮くような出来事だったにちがいない。

 逆境の中にあっても、みすヾは持ち前の優しさと、広い心で夫を愛しようとしていた。そして、この頃、こんなすてきな詩を作っている。

    みんなをすきに

   わたしはすきになりたいな、
   何でもかんでもみいんな。

   ねぎも、トマトも、おさかなも、
   のこらずすきになりたいな。

   うちのおかずは、みいんな、
   かあさまがおつくりなったもの。

   わたしはすきになりたいな、
   だれでもかれでもみいんな。

   お医者さんでも、からすでも、
   のこらずすきになりたいな。

   世界のものはみィんな、
   神さまがおつくりなったもの。

 しかし、みすヾのこの思いは夫に伝わらなかった。夫はやがて彼女に詩作をすることを禁じ、投稿仲間との文通さえも禁じた。詩作をこころの支えにして、病と闘いながら子育てをしていた彼女にとって、このことの精神的打撃は大きかった。そしてさらに大きな打撃が、彼女におそいかかってきた。


橋本裕 |MAILHomePage

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