橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
2001年06月23日(土) |
金子みすヾの詩(10) |
みすヾが詩人として活躍したのは大正12年から昭和3年にかけて、わずか5年間ほどである。こうした短期間に、500編をこえる詩がうまれた。その背景には、大正時代が童謡の興隆期であり、黄金時代であったということがある。
たとえば、鈴木三重吉による「赤い鳥」の創刊は、みすヾ15歳の大正7年(1918年)であった。そして翌年には「金の船」、さらに「童話」が発刊され、北原白秋、野口雨情。西条八十がそれぞれの雑誌に自作を発表し、また投稿欄の選者として若き投稿詩人たちを育てた。
ちなみに、金子みすヾが師事した西条八十の代表作「かなりや」が「赤い鳥」に発表されたのは大正7年であった。西条はこの一作でたちまち人気の童謡詩人になった。私たちが今日なお愛唱してやまない童謡のほとんどは、この時代に生まれている。
北原白秋の代表作では、「あわて床屋」(大正8)「ゆりかごのうた」「ちんちん千鳥」(大正10)「砂山」(大正11)「からたちの花」(大正13)「ペチカ」「待ちぼうけ」(大正14)「この道」(大正15)など。
野口雨情の代表作では、「十五夜お月さん」(大正9)「赤い靴」「七つの子」「青い目の人形」(大正10)「しゃぼんだま」(大正11)「雨降りお月さん」「あの町この町」(大正14)など。
西条八十の代表作では、「かなりや」(大正7)「お山の大将」(大笑)「お月さん」(大正11)「肩たたき」(大正12)など。他の作者の童謡に「靴が鳴る」「背くらべ」「浜千鳥」(大正8)「叱られて」(大正9)「赤蜻蛉」「雀の学校」「てるてるぼうず」「どんぐりころころ」(大正10)「月の砂漠」「どこかで春が」「春よ来い」「夕焼け小焼け」「花嫁人形」(大正12)など。
最後の夜、みすヾは愛児を風呂に入れながら、たくさんの童謡を歌ってやったという。上にあげた童謡のほとんどを、みすヾは歌ったのではないだろうか。そのなかの一つ、西条八十の「かなりや」を引いておこう。
かなりや
唄を忘れた金糸雀は 後ろの山に棄てましょか いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 背戸の小藪に埋(い)けましょか いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましょか いえ いえ それはかわいそう
唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす
大正デモクラシーのうねり中で、文芸は一部のエリートの独占物とは見なされなくなってきた。だれもが自由に生き生きと自己の思想や感情を表現するすばらしさを実感することが可能になってきた。そうした新しい時代のなかで金子みすヾの詩才が花開いた。
しかも、彼女の詩は、はるかに時代を越えている。さらに深く自己と宇宙に沈潜して、その彼方にある広大な世界を予感させる。今日、彼女の詩が美しい星のように輝いてみえるのは、この神秘的なたましいの光のせいかもしれない。
蓮と鶏
泥のなかから 蓮が咲く。
それをするのは 蓮じゃない。
卵のなかから 鶏(とり)が出る。
それをするのは 鶏じゃない。
それに私は 気がついた。
それも私の せいじゃない。
|