橋本裕の日記
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2007年10月29日(月) 漂流物人生

 車谷長吉さんは慶応大学の独文科を卒業している。卒業論文はカフカ論だったそうだ。大学院に進みたかったそうだが、実家の協力が得られなくて断念した。そして、東京日本橋にある広告代理店で働きはじめた。そこでこんな体験をした。「漂流物」(文春文庫)から引用しよう。

<ある日、私が外回りから帰社すると、私の机の引き出しの中に仕舞ってあるはずの一冊の文庫本が、上司の滝川氏の机の上においてあった。それは私が通勤の往き帰りに、電車の中で少しずつ読んでいたものだった。新潮文庫のプラトーン・田中美知太郎訳「ソクラテスの弁明」だった。

 滝山氏に呼ばれ、「こんな本は、お前が読むような本じゃないだろう。俺はお前が週刊誌読んでいるの、一遍も見たことねえぞッ」と、面罵された。滝山氏は、文庫本を返してくれた。私は薄笑いを浮かべて、その本を滝山氏の前でごみ箱に捨てた。が、会社からの帰りに、まったく同じ文庫本を求めた。求めないではいられなかった>

 たしかにプラトーンはサラリーマンが通勤途中に読むような本ではないかもしれない。しかし、車谷さんは、プラトーンを読むことでどうにか精神のバランスをとっていた。それは「会社員のくさぐさに、何かもう一つ物足りないものを感じていた」からだった。

しかし、「もう一つ」が何であるか、彼にもわからなかった。ところが、思いがけず、上司にとがめられたことで、その「何か」がはっきりしだした。プラトーンが彼の心に迫ってきた。

<また一から読み始めたプラトーンの言葉は、まったく違っていた。新鮮だった。それは特に深い思いもなしに読んでいた時には、ないものだった。言葉が心に沁みた。滝山氏は、氏の意図とはあべこべに、私に私の鈍感な自己欺瞞を思い知らせてくれた。

 そのころから、私は少しずつ文章を書きはじめた。私の古里の、無名の人々の生死について書きはじめた。書くことによって己れを慰める以外に、精神の均衡を保つことが出来なくなったが、浅はかな私においては、それは同時に、会社員生活の均衡を破るものだった。私は会社生活に身が入らなくなり、退職した>

<あとは無一物の腑抜けになるまでは、一瀉千里だった。三十の身空で、冬が来ても、身に付けるセーター一枚なかった。文章を書きはじめたことが、次々になり行くいきおいを呼び込み、私をそこまで追い詰めたのだった>

 結局、車谷長吉さんは書くことも断念するしかなかった。書いた小説は何十回書き直して投稿しても没になり、生活に行き詰った彼は、31歳のとき、両親をたよって実家に逃げ帰った。しかし、故郷も彼の安住の地ではなかった。

<私は書くことは捨て、播州飾磨の在所に帰った。やがて姫路で旅館の下足番になり、その後、料理場の追い回し(下働き)となって、京都、神戸、西ノ宮、尼ケ崎、大阪曽根崎新地、泉州堺、ふたたび神戸三ノ宮町、さらに神戸本町と、風呂敷荷物一つで、住所不定の九年間を過ごした>

 37歳のとき、車谷長吉さんがは料理屋の下働きをしながら、その体験をもとに「萬蔵の場合」という小説を書いた。これが「新潮」に掲載され、芥川賞の候補になった。その翌年、車谷長吉さんは再び文士になることを決意して上京した。

 それからも貧乏暮らしが続いたが、十年後の47歳のときに新潮に発表した「鹽壷の匙」が翌年、芸術選奨文部大臣賞、三島由紀夫文学賞をとった。48歳で車谷長吉さんは結婚した。相手の高橋順子さんはひとつ年上で、二人とも初婚だった。

そして50歳のとき書いた「漂流物」がふたたび芥川賞の候補になる。これは芥川賞には落選したが、平林たい子文学賞をとる。そして平成十年、53歳のとき上梓した「赤目四十八滝心中未遂」(文藝春秋)で直木賞受賞。ようやく生活が安定し、それまで続けていた外校正の内職を止めたのだという。

こうしてみると、車谷長吉さんの漂流物人生はなかなかのものである。その出発点が、プラトンの「ソクラテスの弁明」だったというところが面白い。私もプラトーンを読むことでどうにか精神のバランスをとっていた時期がある。私も教職という仕事に「何かもう一つ物足りないものを感じていた」からだろう。もっとも、それで叱られたことはない。

(今日の一首)

プラトンを心のささえに今日もまた
満員電車で唯我独尊


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