橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2007年11月03日(土) さとりの風光

 私は高校の頃から仏教が好きで、親鸞、道元、日蓮をはじめ、いろいろな人の著作を読んできた。そして五十数年生きてきて、さまざまな体験をし、人生について自分なりに自得するところがあった。これについては自伝や日記にいろいろと書いた。

 そんな私が最近しきりに考えるのは「仏性」ということである。仏教はやはり「仏性」が眼目ではないかと考えている。そこで今日は「仏性」からみた「さとり」のあり方について、思うところを書いてみよう。

 私は「さとり」も、「六道輪廻」を解脱しながら、声聞、縁覚、菩薩、仏と、小乗的なものから大乗的なものへと、しだいに境地が深まっていくのではないかと考えている。これを「さとりの4段階説」と名づけておこう。

(1) 他者の仏性に気づく。(声聞のさとり)
(2) 自己の仏性に目覚める。(縁覚のさとり)
(3) あらゆる人々に宿る仏性に気づく。(菩薩のさとり)
(4) 森羅万象に仏性を感じる。(仏のさとり)

 宗教書や聖典を読んだり、すぐれた人に師事したりするのは、「声聞」の段階である。このレベルに固執すると、新興宗教の教祖に絶対帰依している人たちのようになる。教祖や尊師や聖典を絶対化し、そこにのみ尊い真実(仏性)があると考えていては、このレベルから抜けられない。

他者に帰依し、自己を謙虚に保つことは大切なことだが、もっと大切なことがある。それは自分の中に仏性を見出すということである。他人の恵みで生きるのではなく、自己の中に湧き出る泉を発見し、その清らかな「命の水」を自らの杯で飲む必要がある。

 しかし、自己の中に仏性を発見したとして、この「小乗のさとり」のレベルにとどまっていてはいけない。その同じ仏性が他の人々の中にもあると気づいたとき、大乗仏教が教える「菩薩のさとり」にいたる。さらにその先に、「山川草木悉有仏性」の「仏のさとり」の世界がある。

<念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極樂を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念佛こそ、彌陀超世の本願に尤もかなひ候へ。

 かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、佛もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善惡の境界、皆淨土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし>(岩波文庫「一遍上人語録」)

 仏性はすべての人々の中にある。しかし、それだけではない。他の動物や植物、山や川にさえ存在する。すなわち宇宙の存在の一切が仏性である。「よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし」と感じられれば、これこそがまことの「仏のさとり」であろう。

 さとりには小さなものと大きなものがある。安心立命を求めて自得しているのは、利己的な小さなさとりだ。私たちはここに安住することなく、宇宙の森羅万象と心を通わす、広大無辺のさとりを目差したい。

(今日の一首)
 
稲架ちかくかおりただようさわやかに
鳶も悠々秋晴れの空


橋本裕 |MAILHomePage

My追加