橋本裕の日記
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2007年11月07日(水) 憂世と浮世

私たちは六道の浮世に暮らしている。六道とは「地獄」「餓鬼」「畜生」修羅」「人」「天」である。私たちの心はこの6種類の境涯をいそがしくかけめぐっているらしい。日蓮聖人はその主著「観心本尊抄」にこう書いている。

<あるときは喜び、あるときは瞋り、あるときは平らかに、あるときは 貪り現じ、あるときは癡(おろか)現じ、あるときは諂曲なり。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり>

 地獄というのは地下の牢獄のような世界だ。そこに体を縛られ、拷問を受けている状態を考えればよい。人間にとってこれ以上の苦しみはない。しかし、こうしたことが私たちの人生で起こらないとも限らない。現に多くの人々が無実の罪で獄につながれ拷問を受けている。

 また、会社でリストラされたり、学校でいじめを受けて、死を思いつめている人の心も、ある意味でこの地獄界に囚われているのだろう。死ぬことでしか逃れられないと思いつめるのも、地獄の苦しみである。心を閉じ込める見えない牢獄も恐ろしい。

 餓鬼というのは、飢餓感に駆り立てられ、貪る心に支配されている状態だ。「あれも欲しい、これも欲しい」と飢餓感は募るばかりで、肝心のものは手に入らない。餓鬼道に落ちた人は、子どものように地団太踏んで、物を欲しがる。物だけではなく、地位や名声を貪る人も、餓鬼道に迷う亡者である。

 畜生は犬や猫のように本能のまま、欲望の赴くままに生きている状態だ。自分が何をしているのか自覚もなく、将来のことを考えようともしない。その日その時を、これという思案もなく、欲望に支配されて生きている。

これでも地獄や餓鬼道に堕ちている人からみれば、まだしあわせな方であろう。私も犬や猫の境遇をうらやましいと感じたことがあった。動物の自然な生き方を「愚か」と決めつけて侮ることができようか。空高く舞う鳶を見れば、彼らの自由で自然な生き方に羨望をさえ覚える。

 人間は動物と違って、状況を判断したり、思案したりできる。たしかにこれが文明をつくりあげたが、この文明が築きあげた富は争いごとも作り出す。他者を蹴落とし、勝者になるために、修羅たちは驚くほどの情熱を傾ける。そしてこの世界を争いと弱肉強食の修羅場と化す。これが世界の現実である。

さて、仏教ではここまでの「地獄、餓鬼、畜生、修羅」を四悪道と呼ぶらしい。「束縛、飢餓、蒙昧、争い」に満ちた人生は基本的に「苦の世界」だ。これに対して、健康や財産・地位に恵まれた「天界」は、光に満ちあふれた「喜びの世界」である。

美しい妻を娶り、社会的に成功して巨万の富を手に入れ、お城のような邸宅に住む人は天界の住人だといえよう。多くの人がこうした夢のような生活に憧れる。しかし、この浮世の幸せも永劫に続くわけではない。

人はいつ業病に襲われるかもしれない。死もまた必然の運命である。巨万の富も、株価が暴落すれば、莫大な負債に変身するかもしれない。このように人生は無常である。天界の住人も転落と死の不安から免れることはできない。浮世はたちまち憂世と化す。

 人生に苦楽はつきものである。日蓮は「平らかなるは人」だという。「平らか」というのは、「苦と楽」の平衡点ということだろう。この水準面を境にして、私たちは時には地獄界にまで深く落ち込んで絶望したり、天にものぼるよろこびを味う。この浮き沈みが人生だ。

 こうした浮世のありさまを、私たち日頃あまり認識しない。たしかに他人の有様についてはよくみえるのだが、こと自分のありさまはよくわからない。しかし、仏教をならうとそんな自分の姿が見えてくる。日蓮は「観心本尊抄」にこう書いている。

<観心とは、我が己心を観じて十法界を見る。これを観心とはいうなり。たとえば、他人の六根を見るといえども、いまだ自面の六根を見ざれば、自具の六根を知らず。明鏡に向うの時、始めて自具の六根を見るがごとし。法華経等の明鏡を見ざれば、自具の十界を知らざるなり>

 日蓮は法華経を鏡として、そこに自己のありのままの姿を映してみよという。そうすると、六道に迷い、苦しんでいる自分の姿がよくわかる。「観心」を通して、四聖の世界が見えてくると、この苦界から救われたいという思いも湧いてくる。

<四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)は冥伏して現われざれども、委細にこれを尋ぬれば、これあるべし。問うて曰く、六道において分明ならずと雖も、ほぼこれを聞くに、これを備ふるに似たり。四聖は全く見えざるは如何。答えて曰く、前には人界の六道之を疑ふ、しかりと雖も強ひてこれを言って相似の言を出だせしなり、四聖もまたしかるべきか。試みに道理を添加して万が一これを宣べん。ゆえに世間の無常は眼前に有り、豈人界に二乗界無からんや。無顧の悪人も猶妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり。ただ仏界計り現じ難し、九界を具するを以って強ひて之を信じ、疑惑せしむることなかれ>

 浮世(六道)にも浮世のたのしみがある。浮世の出来事に一喜一憂し、絶望したり、ときには人と争い、そしてまた仲直りしながら、泣いたり笑ったりして生きていくのもひとつの人生である。しかし、そうした生き方に安住せず、そこから解脱する人生も悪くはない。しかし、私たちがいかなる人生を歩むか、これもすべては仏縁ということであろう。

(今日の一首)

 人生は浮き沈みあり波乗りと
 思えばこれもたのしみのうち 


橋本裕 |MAILHomePage

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