橋本裕の日記
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第一章 暑さのさかり(1)
春江は信夫に幼い純也を渡し、そそくさと背中を向けた。そして受話器を取り上げた。その間に信夫はまるでスローモーションの映像のように畳のうえに尻餅をついた。倒れるまでにずいぶん時間がかかった。信夫がもちこたえようとして、ふんばったのがいけなかった。その分、派手な倒れ方をしてしまった。
それだけならいいが、その反動でさらにうしろに体が転がり、薄くなった頭を障子戸の桟にぶつけた。グギッといやな音がした。頭蓋骨が割れたのかと思ったが、先に障子の桟が折れたようだ。
尻餅をついたのは、春江からいきなり孫を渡されたからだ。それで体の重心を崩した。まだ乳幼児の孫を放り出すわけにはいかないので、抱いたまま仰向けに倒れるしかなかった。孫の純也は信夫に抱かれたまま、きょとんとしていた。
かたわらで5歳になる典子が一部始終を見ていた。祖父がはでに転がるのを見ても、典子は目を大きく見開いたほかは特別な反応を見せなかった。ひと声も出さなかったし、視線もすぐにわきにそらせた。
純也を信夫に預けた春江は、信夫が倒れたところは見ていない。信夫の頭が障子にぶつかり、音がして、はじめて振り向いた。そして受話器の口に手を置いて、何事もなかったようにひらたく父親に言った。
「神岡さんから」 その声は電子機械の合成音のようで、血の通った肉声のようではなかった。春江には尻餅をついて後頭部を打った父親をいたわろうという気持もないようだ。
信夫は純也を畳の上に置くと、後頭部を撫でながら立ち上がった。 「お前がいきなり純也をよこすからだ」 信夫は吐き捨てるように言って、少し邪険に春江から受話器を受け取った。春江は無表情のまま、目を伏せて、信夫から遠ざかった。
電話は神岡の奥さんからだった。やわらかい声が耳元でささやくように聞こえた。 「今の、春江さんね」 「ええ」 「どうかなさったの」 「ちょっと、尻餅をついたのです」 「それは大変。大丈夫」 「いや、尾骶骨をいためたらしい。全治一ヶ月でしょうか」
冗談をいうことは滅多になかったので、自分でも驚いた。 「お医者さんにみてもらったら」 受話器の向こうで、奥さんが笑っていた。信夫の気持は、こんな会話で少しほぐれた。
「それで、何か……」 「神岡がお邪魔していないかと思って」 信夫はつい奥さんのやわらかな口調に載せられて、 「そうですな、最近はご無沙汰ですね」 と余計なことまで答えてから、まずかったかなと思った。
奥さんからの用件はそれだけで、とくに急用でもないという。そうするとやはりさぐりを入れてきたのかも知れない。
神岡はこれまで、奥さんの目を盗んで、外でこっそり愛人と会っていた。そのアリバイ工作に友人である信夫を利用することがあった。こんな口実に利用されるのはたまらないと、信夫が怒ったこともある。
神岡は女性にもてた。いろいろ浮気もしている。それにも関わらず、夫婦仲はよい。信夫は神岡と違って、浮気もしないで、まじめに、どちらかというと仕事一途に生きてきたが、夫婦仲はよくなかった。その挙げ句、妻は死んだ。娘は家を飛び出し、子どもを作り、出戻りを決め込んでいる。
受話器を置いてから、かなり大きな声でつぶやいた。 「まったく災難だ。人生は怖い」 春江の耳に届いたかもしれない。なあに、かまうものかと、信夫は薄くなった頭を撫ぜた。たんこぶができていた。
縁側の方に歩きながら、信夫は典子を眺めた。薄汚れた細い腕を、袖なしのワンピースをから出した典子は、縁側近くの畳の上に腰を下ろし、前に純也を抱いて、信夫を上目使いで見た。そして信夫と目が合いそうになると、縁側の方に逸らした。5歳の子にしては、妙なことに気が働く子だった。
これも母親譲りかもしれない。春江は信夫の視線を避けるだけではなく、ときには挑むような目をした。そうした視線に出あうと、信夫は自分の目の前に立っているのが春江ではなく、15年前に死んだ妻の静子ではないかと錯覚することがある。
信夫に対する敵意が、DNAによる遺伝のように、静子から娘の春江へ、そして孫の典子にまで受け継がれているのだろうか。
信夫は重苦しい気持を振り切るように縁側に出た。8月も半ばにさしかかっていたが、まだ暑さのさかりだった。生命力を感じさせる強情な夏の日差しが、廃園のように捨てられた庭にあふれていた。
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