橋本裕の日記
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木曽川の堤防の片側が桜並木になっている。以前は堤防の両側に桜木が並んでいた。それが道路の補修工事で、片側の桜が切り倒された。広くなった道路をかなりの車が通る。これは私とってあまりありがたくない変化だった。
桜並木を透かして、名鉄の赤い鉄橋がみえる。その橋のたもとに名鉄木曽川堤駅があって、駅のプラットホームの上に、御岳がかすかにみえる。冬が近づくにつれてそれが真っ白になる。
私はあるときこの堤防を歩きながら、「この川の流れをどこまでもさかのぼっていったらどこにたどり着くのか」という疑問にとりつかれた。そこで家に帰って、地図で調べてみると、どうやら木曽川は御岳を源流にしているらしいことがわかった。
その頃調べたある文献には「御岳火山東麓を源流部に持つ木曽川は,御岳の東麓に厚く堆積した降下テフラを取り込みながら,各地に御岳火山起源の軽石片を多量に含んだ砂礫層を堆積させたことが知られている」などとも記されていた。
また、地図を眺めているうちに、そこに描かれている木曽川の形に違和感を覚えた。どうも実際のかたちと違うような気がする。私が日頃間近に目にしている川はあちこち大きく蛇行している。その複雑な様子が地図には描かれていない。
ちなみに木曽川の長さは帝国書院の地図によると209kmとあるが、別の文献では227kmとある。文献によって長さがずいぶん違う。
このことで思い出したのは、スペインとポルトガルの国境線の話だった。おなじ国境線でありながら、スペインは987kmだといい、ポルトガルは1214mだという。これは両国が用いていた地図の縮尺の違いによって生まれたのだという。
つまり大きな縮尺の地図では細部の変化が省かれているのだ。そうすると線分はなだらかになる。しかし、細かい地図では線分の変化が細かく描かれるので、長さがのびるわけだ。川や海岸線など、自然が形作る生成物の多くはこうした細かい構造をもっている。
樹木にしても、枝から葉、そして葉脈へと、枝分かれのパターンが限りなく続いている。人間の血管の構造もそうだし、消化器管や、大脳皮質も、襞の中に襞が無数に折り畳まれている複雑な構造をしている。
宇宙の構造も、原子核のまわりを電子が運動するさまは、太陽系の縮図のようだし、原子核や電子も、その内部構造があることがわかっている。電子を発見したローレンツという学者は「電子といえども汲み尽せない」という名言を残した。
ギリシャ以来、数学者はすべての曲線はかぎりなく拡大すれば直線になると考えて理論を作ってきた。物質についてもデモクリトスが同様な世界観を提供している。しかしどこまで拡大してもざらざらした凸凹やクオリティを失わないのが自然界の実相ではないか。具体的な自然は人間の「点」や「線」、「原子」などといった抽象的な観念では収まりきらない豊かさをそなえているのだろう。
つまり実際の私たちの世界は、その細部をどこまで拡大しても、最後までその複雑さを失わないようにできているようだ。少し専門的になるが、どこまで拡大してもひとつのパターンが入れ子のように続いて見られる図形をフラクタルと呼ぶ。そして自然界にはこのフラクタル構造がふんだんに見られるらしい。
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