橋本裕の日記
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青春18切符を使った各駅停車の旅は、ゆったりとした読書の旅でもある。一昨日の京都の旅に持参したのは、藤本義一さんの「歎異抄に学ぶ人生の知恵」(PHP出版)という本だ。200ページあまりの薄い文庫本だが、藤本さんの人生が一杯つまった、内容のある重い本だった
<「方丈記」「徒然草」につづいて「歎異抄」を三冊目に選んだのは60歳に入った頃だった。それも一冊をくり返し3年間は読もうと考えた。三年読めば、古典が自然に現代に融合してきて、自分のなかに浸み込んでくる気配がある>
これは冒頭の書き出しである。「歎異抄」を読み始めて、藤本さんはこれを手放さなかったという。原稿用紙にしてわずか30枚の短編だが、読めばかならずその度にあたらしい発見がある。それが面白くて、手放すことができなくなったという。
<ボロボロになっているが海外に旅に出かける時持って行って機内とか車中で展げると、必ずそこには「人生」についての発見がある。哲学書と感じる時もあれば、心理学の本だと思う時もあり、文学書だと考えてしまうときもある。宗教書とは思わない>
「歎異抄」はいうまでもなく宗教書である。これを「哲学書」「心理学の本」「文学書」だと考える藤本さんは異端の読者というべきだろうか。しかし、この感性はなかなか面白いと思った。
<私は新幹線の中でボロボロになった「歎異抄」の一行を読みながら、三十数年前に行ったアフリカ中央部の大草原を不意に想いだす時もあれば、二十数年前に旅立った北欧の荒んだ海岸を思い出す時もあり、パリやロンドンの街角が浮かび上がってくることもある。
また、祖母や母が台所で働いていた姿を思い出したりする。そして「六道・四生」という文字に空襲や焼跡を思い出したりする。闇市の中で痩せた体で働いていた自分に慈悲をかけてやりたい気がする。
自分の選んだ本が一生に数冊あれば、それが宝である。その一冊の一頁、一行、熟語から立ち上がってくるのは、人生の記憶の蘇りであり、現実を非現実の世界に連れて行ってくれる道標である。十三世紀の「歎異抄」の中には、現在も宿っているし、絶対に生の眼では確かめることが出来ない22世紀の世界も想像できる>
藤本さんは、古典は過去ばかりではなく、人類のはるか未来をも照らし出すという。古典を読むことで、私たちはそうした「遙かな視線」を手に入れることができる。その光はいうまでもなく、現在の私たちの足元を照らし出す光にもなる。
私が「歎異抄」に出合ったのは高校時代だ。県立高校の受験に失敗し、失意のなかで評判のよくなかった私立高校に通った。その学校でたまたま3年間仏教の授業を受けた。3年生のときは僧籍にある教頭先生から歎異抄の授業を1年間受けた。
それからもう40年近く私は歎異抄に親しんでいる。人生の折節、この書は私の伴侶として近くにあって、私の人生の歩みを照らしてくれた。この古典に若くして会うことが出来た私は、ほんとうに幸せ者だと思う。
もっともその幸せに気づいたのは、かなり最近のことである。やはり古典は、年を経て、あるていど人生体験がなければ、「自分のなかに浸み込んでくる」ようには読めないものらしい。
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