近くの親戚筋のお婆さんが、お亡くなりになり、ほろよいは、お葬式のお手伝いに行ってきました。
脳内出血で長期間入院しておられ、高齢でもあり、次第に衰弱されての大往生でしたので、御家族もすでに覚悟しておられ、一家の主が突然事故死してしまうような悲しみに満ち満ちたものではなく、淡々と葬儀は進行しました。
正座の苦手はほろよいは、長いお経には閉口ですが、お経が終わった後で朗読される、蓮如上人のお説教「白骨の御文(はっこつのおふみ)」には、いつも惚れ惚れいたします.
これをボイストレーニングしたお坊さんが朗読されますと、その文章のうまさ、節回しのうまさに(もちろんそのお教えの内容にも)恍惚といたします。まさに「声を出して読みたい日本の名文」といっていいでしょう。
少し長くなりますが、以下全文を御紹介いたします(ちょっとお線香臭いのは御寛容のほど)。
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期なり。 されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。 されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
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