アナウンサー日記
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2001年04月22日(日) 英語の話・・・その11(父の話最終回)

 アメリカに渡って8ヶ月。航空管制官のアメリカ国家試験は、筆記と実技で行われた。



 筆記試験はもちろん英語で、アメリカ人と同じ問題。実技は、管制塔で無線マイクを握って実際に飛行機を誘導する。試験ではベテランが飛行するとは言え、誤った誘導はパイロットを危険にさらすことになる。失敗は許されない。


 まだコンピューターなどない、アナログの時代・・・。最終的に頼りになるのは、自分の「目」と「勘」だけだ。


 管制官は、まずパイロットからの無線連絡を頼りに飛行機の位置を推測。手元のメモにすばやく鉛筆を走らせ、正しい飛行ルートを計算。風速計や気圧計などで気象状況を調べてルートに修正を加え、近くに別の航空機はいないか、高い建物は無いか、再度安全性を確認した上でパイロットに伝える。計算に時間がかかればかかるほど、飛行機は現在の位置よりも進んでしまう。時間との戦いだ。そのプレッシャーと緊張感を楽しめなければ、とても管制官はつとまらない。


 父は、「飛んでくる飛行機は味方の飛行機で、こっちを撃たないんだから」と考えると、気が楽になったという。戦時中、鹿屋航空隊を襲ったアメリカ軍機は、父の隣りで小銃を構えていた友人の腕を、機銃掃射で引きちぎった。だが、もう戦争は終わった。あれからまだ10年しかたっていないのに、自分はかつての敵軍に航空管制技術の勉強をさせてもらっている・・・その運命の不思議。
 

 
 試験に平常心で取り組むことができた父は、航空管制官試験に合格した。筆記も実技も、ほぼパーフェクトだった。とくに実技は「まるでアメリカ人のように聞き取りやすいシャープな発声と、落ち着いた見事な誘導ぶりだった」と試験官をうならせた。



 この時期前後してアメリカ各地で管制官試験に臨んだ、日本人留学生20数名全員が、試験に合格したという。戦後間もない1950年代、留学生たちは決死の覚悟で太平洋を渡っていた。合格するまで日本に帰らない覚悟で、文字通り寝食を忘れて勉強したのだ。父は「それで受からないはずがない」と思い、自分を含めた仲間たちの合格を誇らしく感じた。そして「戦争では負けたが、個人の能力ではアメリカ人に絶対に負けたくない」とも考え・・・いまだ焼け野原にバラックが残る祖国日本に思いをはせた。



 残り数ヶ月のアメリカでの研修生活の中で、父は中古の赤いオープンカーを手にいれた。父にとって「オープンカー」は、自由と豊かさの国・アメリカの象徴だった。



 ・・・父はハイウエイを気ままに飛ばしながら、「いつか日本が復興して豊かな国になったら、俺はきっと赤いオープンカーを買おう」と、思った。

(この章終わり)
 


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