アナウンサー日記
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2001年05月15日(火) 生きることと、死ぬこと 1 連絡

 今朝7時頃、中学時代からの友人から「妹が死んだ」と連絡があった。


 彼は淡々とした口調で、友引が絡むので一日置かなければ葬儀屋が動いてくれないこと、仏教で言う所の通夜と告別式は、それぞれ明日の午後7時と明後日の午後1時から、長崎市内のプロテスタント教会で執り行うこと・・・そして教会の電話番号や住所、教会には駐車場が無いことなどを、事務的に私に告げた。私が「悪いが告別式は仕事で行けない」と言うと、彼は「誰だって平日は仕事だから仕方がないさ」と軽く答え、お互いに簡単な別れの挨拶をして電話を切った。


 彼女が、ひどく重い病気におかされていることが分かったのは、もう5年前、いや6年前のことだったか。以来、外科医である彼女のお父さんが主治医となり、精神科医である彼女の兄をはじめ、ご家族の皆さん全員で彼女の心を支えた。

 大切な人が毎日「死」と向かいあっているのを間近に見守ることが、どんなにつらいことか・・・やはり、経験したことがあるひとにしか分からないと思う。しかも、病気の進行を一番把握している主治医は、彼女のお父さん自身だったのだ。

 「たった一日でも長く、一緒にいたい」という祈りの日々が、何年も続き・・・だが、私の知る限り、私の友人はほとんど弱音を吐かなかった。いつもいつも妹のために出来ることを前向きに考え、実行し、そればかりかこれまで以上に仕事やボランティア活動、趣味の児童合唱団指導に力を注いだ。そうした場所での彼はまさに快活そのもので、誰も彼の妹が毎日死と戦っているとは気づかなかっただろう。私は友人として、彼の態度と、彼を支えた奥さんを誇りに思う。



 彼の妹は、親友の妹だからという贔屓目がなくとも、素晴らしい女性だった。


 初めて会ったのは、私と彼が中学1年生のときだ。彼の家に初めて遊びに行ったときに、まだ小学生の彼女がいた。肩までのストレートヘアに目鼻立ちがハーフのように整っていて、「長崎にこんな綺麗なコがいるんだ」とびっくりした。もの怖じせずによく笑うことと、東京出身のお母さんの影響か、標準語で話をしたこと、友人のことを「おにいちゃま」と呼んでいたこと。まるで、つい最近のことのようだ。
 

 やがて大人の女性になった彼女は、すらっとした長身で、文句無く美人で、しかも合唱団でソロが張れる美声で、それでいて料理とか裁縫も好きで、実はちょっぴり気が強いけど、一歩下がって気配りができるひと・・・と、完璧そのものだった。さぞかし彼女に片思いをしていた男や、恐れ多くて思いを打ち明けられなかった男がたくさんいたことだろうと思う。

 医師の家系にあって彼女自身も、精神科医の兄や、やはり医学部に進んだ弟君に劣らず明晰な頭脳の持ち主だったが、結局彼女は地元長崎で教育者の道を選んだ。高校教諭として、放送部の指導に熱心に取り組み、教え子たちは全国大会で大活躍した。
 


 美しく、利発で、それを鼻にかけないおだやかさ。誰からも好かれ尊敬される彼女が、何故二十代半ばにして、病魔に襲われなければならなかったのか・・・。


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