アナウンサー日記
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2001年05月16日(水) |
生きることと、死ぬこと 2 前夜式 |
友人の妹、亮子さんの「前夜式」・・・仏教でいうところの「通夜」に参列してきた。
会場となったのは、長崎市の繁華街にあるプロテスタントの教会だ。教会の外観から見ても、カトリックに比べプロテスタントは質素なイメージだが、会場内には、色とりどりの花が華やかに飾り付けられ、花々の清々しい香で満たされていた。 午後7時からの前夜式には、彼女の親戚、友人、同僚の教師、教え子たちなど、およそ350人もの弔問客が訪れ、会場の中に全員が入ることが出来なかった。もちろん、弔問客の数だけで故人の遺徳を推し量ることなど出来はしない。だが教会内では、故人の早過ぎる死を惜しんですすり泣く声があちこちで聞こえた。あらためて彼女が多くの人々に愛されていることを知った。
式では、弔問客に「前夜式次第」が配られ、全員で牧師とともに祈りのことばを捧げ、オルガンの調べにのせて賛美歌を歌った。
牧師は説教の中で、今月初めに彼女の病室を訪れたときの話をした。牧師が「あなたの思いを神様にぶつけなさい。それは、恨みのことばでもいい」と言うと、彼女は「神様に恨みなどありません」と応えたこと、「あなたのために祈りましょう」と言うと、「祈るなら、私の家族の為に祈ってください」と微笑んだことを、「どちらが牧師だか分かりません」と、時折声を詰まらせながら話した。
50分あまりの式の最後に、遺族を代表してお父さんが挨拶をされた。彼女は、14日の午後8時20分に病院で息を引き取ったこと。彼女の「がん」は、24才のときに見つかったこと。外科医である自分の診断では、手術をしても、もって2・3年だったこと。それなのに娘は6年以上も病気と戦い、生きてくれたこと。
そしてお父さんは、娘の自慢をした。娘は・・・おっとりとした、人を傷つけることのできない優しい性格で、周りの人々を勇気付けてあげられる、そんなおだやかな、私たち夫婦には出来すぎた娘だったこと。娘は自分の病気のことを知っても「神様の計画だから」と静かに受け止めていたし、私たちも、娘は神様の御許へ帰るのだということを信じたこと・・・。お父さんの手もとは震え、涙もこぼれたが、力強いしっかりとした声だった。父親らしい愛情に溢れた、立派な挨拶だった。
式の後、彼女とお別れをした。
棺の中で花に囲まれていた彼女は、うっすらと微笑んでいた。話しかけると目を開きそうな安らかさだ。不謹慎かも知れないが、やっぱり美人だと思った。私が長く佐賀にいたこともあり、会うのは5年ぶりくらいだ。棺の中の彼女は少女時代とは違い、髪をキャリアウーマンらしく肩に届かないくらいに揃えている。
彼女の兄は、「この髪の毛は、本物なんだ」と言った。「抗がん剤で全部ぬけちゃったんだけど、もう効果が無くなって、半年前から止めたんだ。そうしたら、これだけ伸びた」
私が「よかったじゃないか、髪の毛」と言うと、彼は一瞬ことばを失い、「そうだな」と短く言った。
実のところ・・・私はまだ、彼女が、「亮子ちゃん」が亡くなったという実感が湧かない。
過ぎていく日々の中でいつか私の記憶も薄れ、彼女の死をうつろに受け止めていくようになるのだろうか。
だが今は、初めてあった時からずっとまぶしい存在だった彼女の思い出を、いつまでも鮮烈な記憶として留めておきたいと心から願う。亮子ちゃん、君は確かに、まだ生きている。
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