NY州在住 <旧『東京在住』・旧旧『NY在住』>
kiyo



 イサカまでの道程<私の最も長い一日>

さて、18日に日本を離れ、いまはニューヨーク州イサカというところにきてしまいました。

ほんとうは、17日の夜などには、お世話になった人々へご挨拶の電話をしたかったのですが、ちょっと『小川軒』で、ごちそうになった折りに、おいしいワインをたくさん勧められてしまい、私、もう大変なことになっていました。
泥酔といってもいい状態。忙しい中、その後で駆けつけてくださった瑠さんともまともにお話しできない状態。
気分が悪い中、大阪からわざわざやはり駆けつけてくれたお友達の助けを借り(というか、ほとんど全部やってもらった)一晩かけて荷物をパッキング。
徹夜で(いや、14日あたりからベッドの上で睡眠をとった記憶がないくらい寝てなかった)やっとのことで新宿からリムジンバスで成田。成田からANAでニューヨークJFK空港へと旅だったわけです。

もう、胃は何も受け付けないし、数分じっとしていると寝てしまう状態で飛行機に乗ったものですから、もう飛行機の上では意識は虚ろでしたよ。
本も一冊も読まず。
オーディオ機器で映画や音楽を楽しもうと思ったら壊れてるし、その質問をCAにしたら、周りの人に苦笑されるし。
kiyo「あの、JAZZ聞いてると寅さんが叫んでるんですが・・・」
CA「は?・・(チェックしてくれる)・・。大変申し訳ございません。壊れております。今修理中ですのでしばらくお待ちください」

しばらくして、何がみたいか?と聞かれたので、『トリビアの泉』と答える。
そして、数時間後
CA「お客様、ただいまより、ANAインフォメーションのチャンネルより『トリビアの泉』を上映いたします」
kiyo「あ、そうですか。28chですね・・・」
・・・
kiyo「あの。。。タモリがロビン・ウィリアムズになっているんですが・・・?」
<『RV』というロビン・ウィリアムズ主演の映画が上映されていた
CA「大変申し訳ありません。確認して参ります」

周りの乗客苦笑。
いや、私だってそれほどタモリとか『トリビア』がみたいわけじゃないんだが・・・。

そうこうしているうちにJFK到着。
懐かしい。なぜだか故郷に帰った気分。
同行したkensukeさんと別れ、今度は友達の家へ直行。
売店で買った、ゲータレードがまた郷愁をさそう。日本だと吐き気がしたが、この国だとすがすがしく感じる。

Michiの家へ到着。アストリアの閑静な住宅街にある。
そこで、スーツケースの中から別送するために段ボール箱二箱を作る。Michiも親身に手伝ってくれる。
(重いし、なにより飛行機の警備チェックにひっかかるおそれがあったので、すぐに必要ではない、電子機器や本は別送することにしていた)
そして、シャワーを借り、着替えてマンハッタンへ出撃。
この町でちょっと前まで暮らしていたんだなー、と通り通りに感激する。
わくわくする、とはまさにこのこと。

デパート『ブルーミングデールズ』でまた別の友達と再会。
中をのぞくと、もうコートや毛皮を売っているじゃないですか。
確かに、Michiの家もクーラーが必要ないくらい涼しかった。なにより、一日4回も雨が降った東京と比べれ、湿気が少ないのでとても過ごしやすい。
日差しが気持ちいいもの。

釜山出身のこの子も少しあか抜けた感じがする。でも、二の腕がもっとぷにぷにしていた。あーNYは栄養がいいからなー、と思わずにはいられない。
去年はずっと一緒に遊んでくれていた。でも、私はここには住まないのだよ。
ここから400キロ離れた森林の中にいかなくちゃいけないと思うと、この再会がつかの間なことを思い知らされる。

そして、遅い昼食を。
適当に、はいったイタリアンレストラン。やはりトマトソースの仕上げ方は私はNYの方が好きかもしれない。トマト自身の味をよく残した、それでいて青臭くない味。コンソメとかたくさん入れすぎていないからだろうか?
トマトの酸味をサンミと味わう。(笑)<わかる人にだけおもしろい、ネタでした。

そして、今度は、NYで最後の三週間を過ごした友人宅へ。
本当は行く予定もあう予定もなかったのですが、密告者によって私の滞在が明らかになってしまったため、いくことに。
懐かしくない。なんでだろう。まだ同居人(というか彼女が家主で私が居候だった)はすんでいるからですか?
このベッドでよくもまぁ、三週間もすごしたね、という気分。快適だったけど、もうそろそろこのビルも取り壊されるらしい。
あー、家主は相変わらず元気いっぱいで、複数の恋愛を同時に楽しみ、見栄張って、生きていました。きっと10年後も同じこと。それでも結婚できなかったら岡山に嫁ぐそうです。

そして、晩ご飯はチャイニーズへ。
Michiと、混んでいる本店はさけて、こっちによくきたんだった。
チャイナタウンで食べるものといえば、ベトナム料理のフォーか、このショウロンポウだったね。そして、有名な蟹ショウロンポウより、絶対豚の方がおいしいということで合意。
MichiもSachi(←私が居候していたところの家主)も、私のチャイニーズの食べ方を継承してくれていた。すなわち、1)チャイニーズにはダイエットコークがよく合う。2)この店で一番おいしいのはショウロンポウではなく、上海チャーハンである。
(上海チャーハンとは、卵とネギだけの非常にシンプルなチャーハン。でも、一番おいしい)

そして、空港へ。
事情があり、その日にIthacaにいくことができなかったので、早々にあきらめてMichi(一緒に空港まで来てくれた!)の家に泊めてもらうことに。
ふたたび、仲のよかった韓国少女に合流。野外につきでたカフェでスナックとビールを楽しむ。
日本でバーテンダーをしていたときに、さんざん作ったコロナビールも、やはりここだと味が違う。ただし、もう徹夜状態5日目の私はアルコールは無理。少しだけで終わる。
あとは、LAからきたという日本人と四人でいろいろお話しして、その晩を過ごすことに。おつまみのチップスもおいしい。というかNYの味がした。

Michiの家に帰った私は新記録かと思うほど早く寝付く。
ベッドの感触が久しぶりです。そしてベッドを貸してくれたKaoruさんに夢の中で感謝。

翌日、やはりMichiは空港まで送りにきてくれる。重い荷物を持ってくれて本当に助かるし、感謝につきません。
一時間でも早くIthacaにつかなくてはいけないために、フィラデルフィア経由でいくことに。
(感じとしては、名古屋から大阪にいくのに名古屋→東京→大阪と飛ぶような感じ)
ラガーディア空港のターミナルからみると、ビジネスジェットかと思うくらい小さな飛行機が。
あーそういえば、ミネアポリスからカルガリーに飛んだときもこれくらい小さな飛行機だったことを思い出す。二年前の誕生日だった。どうでもいい。

フィラデルフィアに一瞬のうちに到着。(フライト時間は一時間もないんだもの)
「フィラデルフィアといえば、フィリーチーズだな」と思い立ち、空港のフードコートで、チキンフィリーステーキ(フィラデルフィアチーズとグリルチキンのサンドウィッチ)を注文。
アメリカのチキンのあの大木鉄板で焼く臭いで、またアメリカにきたことを思い知らされる。


飛行機を望みながら、一人で黙々と食事。
少し大きめのサンドイッチもおいしいので全部食べる。ポロシャツ・短パン・サンダルに巨大なバックパックに、パソコン二ついれたビジネスバッグを提げた怪しい日本人は周りのアメリカ人にどのように写っているんだろう、と思ったが、今に始まったことではないので、とりあえずおいしそうに食べることにした。
っていうかおいしい。ポテトフライ好きな私としては、高温で短時間で揚げた皮付きポテトは喜ばしい。


いよいよイサカまでのフライトにあと40分というところでゲートに移動。
窓に向かってコーネル大学のパンフレットなどを読んでいると、目を疑いましたよ。
おい、これか。飛行機。


一式陸攻ですか??
(一式陸攻とは、第二次大戦中の日本陸軍の爆撃機。重慶を焦土にしたりと活躍したが、非常に脆いために、すぐに撃墜された。あの、山本五十六連合艦隊司令長官もブーゲンビル島上空でこれにのっていて撃墜・戦死することになった)
いやー、まさかプロペラ機とはね。やられた。
荷物とか、もうベルトコンベアじゃなくて、黒人奴隷とチャイニーズ奴隷がふつうに手で投げ入れてるし。
手荷物だって、スペース内ので黄色いタグを付けた上でカーゴルームに運ばれるし。
ブーンっていう音とかしてるし。
でてくるCAのお姉さんも、Narita→JFKと比べると三段落ちですか?という感じになってるし。


ほら。こんな感じ。
だって、私の前の客席に座ってふつうにハンバーガーほおばっているんですよ?このお婆さん。
食べ終えるとおもむろに、飲み物を配ったけど、5分で回収にくるし。
一気のみしなくちゃいけませんか?

ぼろぼろのシートにもたれながらもやはり寝る。
着陸態勢に入り、雲を抜けると下には森しか見えない。
一面緑。
ここは町??

着陸すると強い雨が降っている。
よくこのプロペラ機は着陸できたもんだね。
もう、着陸の時には、隣の見知らぬ乗客にハグしたくなる感じでしたよ。


なんと、ゲートをくぐると、目の前にバッゲージクレームのベルトコンベアがある。
そして、次のドアはもう外。
もうね、目眩もしませんよ。さすがイサカ。なんもない。
浜田山駅状態の飛行場。カルガリーを上回っていましたよ。

よくわからないうちに、乗り合いタクシーに乗せられ(いや、ほんとに意味わからなかったんだ。しらないにーちゃんが叫んでいてどこに行きたい?っていうからコーネルの寮の一つって叫んだら勝手に荷物をのっけられた)寮に着く。
ずぶぬれでスーツケース二個抱えていると、親切そうなインド系太ったお姉さんに、「○○さんならきっと助けてくれる」と教えられ、大学院学生協会の役員っぽひとが時間外にも関わらずチェックインをして丁寧に説明してくれる。
寮は、コロンビアにいたときに、二回目にすんだ、リバーホールそっくり。
シングルルームがそれの二倍くらいあって、もっときれいなのがいいですね。
そのうち、玄関ホールで最後のサインなどをしていると、やはり出来そうな中国人とポーランド人の男の子とやはり非常に英語が流ちょうな韓国の女の子とが私に自己紹介してくれる。そして、なんかよくわからない英語を聞いていると(私の英語力がないだけです)どうやら、偶然ウォルマートに行くから、一緒に来る?といってくれた。
是非是非!と頼んで夜九時に迎えにきてくれることになる。
そりゃそうですよ。見渡す限り、森と湖しかないこの町でどうやって生活必需品を買えと?無理。っていうかこれからの生活私どうするんですかね?


車中、いろいろなことを話すが、私より英語が出来な人がいないんですが・・・。
こんなに節度がある中国人をみたことないし・・・。
こんなに優しい東欧人もみたことないし・・・。
こんなに英語が達者な韓国人をみたことないし・・・。
(っていうか私の知っている高麗大学卒業生はこんなに英語うまくなかったぞ!!)
みんなPh.Dだっていうし。。マスターの私なんて・・・。っていうかどうして私この学校にきたんでしょうね。
いろいろ、暗くなるが、時差ぼけのせいだと割り切って、ベッドシーツ、ハンガー、フライパン、食器、調味料、洗剤などなどいろいろ買い込む。物価の安いこの町でももう二万円もこのために消費しなければならない。
晩ご飯はプレッシャか、眠いかわからないけどポテトチップスで十分だった。

豪雨の中買い物から帰ると、寮の皆さんが荷物を運ぶのを手伝ってくれる。
いやー優しいし、頭がいいし、英語が達者だし。どうしたことでしょう。
私の居場所はどんどんなくなっている気分です。
部屋の片づけと、PCのセットアップと、買い物のセッティングと、NYでお世話になった人へのお礼メールと、日本へ電話を数本かけて、その晩は寝ることに。
やたら柔らかいスプリングだけどやっぱりすぐに寝れる。
翌日は、オリエンテーション。

東京からイサカまで長かったな〜、もうそれだけしか思えなかったし思いたくもなかった。

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2006年08月21日(月)
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