思考過多の記録
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無差別テロ的犯罪を起こしたことで有名なあの新興宗教の元および現信者が、ある流行作家のインタビューに答えた本を読んだ。例の事件の後に行われたインタビューである。あれをきっかけにその宗教を抜けた人もいれば、その後もとどまっている人もいる。あの集団に関しては、いろいろなことが語られているので、僕ごときがこんな場所で改めて何か言うこともなからろう。ただ、僕がこの本を読んで感じたのは、現あるいは元信者達はみんな物事に対して非常に真面目で誠実であること、そして、にもかかわらず(というか、だからこそというか)彼等の殆どがおしなべて独善的であるということである。 彼等は、様々な理由から、「現世」に違和感を持っていた。そして、生きにくさを感じていて、その理由をはっきり教えてくれる人や、そこから自分を救ってくれる何かを求めていたのである。現世での生きにくさの原因は決して自分たちにあるのではない。それは現世のあり方が間違っているのだ、と教えてくれたあの宗教は、彼等に心の安らぎを与えた。漸く自分を肯定してくれる場所(教え)に出会ったと思ったのだ。 よく考えてみると、これは何ら珍しいことでも特殊なことでもない。僕達もまた、世の中の生きにくさを感じるときがある。そんなとき、宗教に走らない人間のとる方法は、何かしら気晴らしをして気分を変える、生きにくさを無視して何も考えずにすむように自分の感覚を鈍らせる、そして恋人や友達にすがったり趣味に逃げたりする、といったものである。いずれの場合も、結局は現実に直面することを避けているので、何の解決にもなっていない。言ってみれば、麻薬によって別の世界にトリップしているだけである。あの新興宗教に走った人達は、問題に直面した段階では、俗世間の人々よりも少しだけ誠実であったかも知れない。彼等の多くは真剣に悩み、哲学や宗教の本を読み漁ったりしている。その過程であの宗教と出会っているのだ。だが、その後にとった行動は、本質的には俗世間の我々と何も変わらない。彼等は同じ教えを信じる者達の集団に閉じこもり、外の世界(俗世間)を蔑み(「崇高な教えを実践している自分たちの魂の方が高いエネルギーを持っている」という主張をみよ)、攻撃し、指導者の教えを無批判に受け入れる。その人に帰依して救いを求める。しかし、それで何が解決したのだろう。「間違った」時代や世間を変えることができたのだろうか。そして、自分自身はどうだったのか。 自分たちの「教え」のみが正しくて、それを受け入れられない「俗世間」の方が間違っていると思ってしまうというのは、僕に言わせればまだまだ修行が足りない。大体、己を虚しくして自分と向き合うことや、全てを受け入れて悟りを開くなどということは、たとえ厳しい修行を積んだとしても誰にでもできることではない。それに気が付けば、もっと謙虚になれる筈だ。最終的に自分達は神に選ばれて「本当の世界」に入ることができるのだと信じるというのも、いくら古今東西の宗教の寄せ集めみたいな「教え」で粉飾してみたところで、「俗世間」の発想そのものではないか。よく言われたことだが、あの事件(そしてあの教団のあり方)は70年代の連合赤軍に似ている。あの時も、「社会主義(共産主義)革命」という思想を信じ、「本当の世界」を作るために戦っていた集団が、「俗世間」を攻撃し、孤立し、最後は仲間同士が傷付け合って(リンチ)内部から崩壊していった。彼等が目指した崇高なりそうとは裏腹に、蔑んでいた「俗世間」に彼等自身がなり果てていたのである。 「本当の世界」など何処にもありはしない。僕達が生きている、この世界が全てなのである。誰もが汚れているし、誰も正しい道を説くことなどできない。それでも必死に生きなければならないのが、この世界なのである。そこで様々な問題に直面しながら、人は逃げたり取っ組み合ったりしながらも生き続ける。その人間の言葉を綴った書物があったとすれば、それは凡庸で汚れていて、大した価値はないかも知れないけれど、どんな神の言葉よりも尊いと思う。
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