思考過多の記録
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ここ数日、熱を出して寝込んでいた。これが初めての経験というわけでは勿論ないのでことさらに書く程のことでもないが、熱が38度を超えてみると、普段何気なく行っている日常の行為が意外と体力を要するものだということが実感として分かる。この文章を書くのも、高々パソコンに向かってキーボードを叩くというだけの行為であるが、熱がある時にやってみようとすると、以外にしんどい。文章を書くということは、結構体力と気力を消耗するものである。熱が高くなって初めてこういうことに気付くというのは、筋肉痛になると普段全く意識していない日常の動作が、どの筋肉によって行われているのかを知るというのに似ている。もっといえば、足を骨折して松葉杖の生活になって初めて、2本足で歩くという行為がどういうものかを意識することに似ている。そして、それまで全く気にもとめていなかった小さな段差が、如何にお年寄りや障害者といった人達の通行の妨げになっているかを知るのである。 何事もそうだが、それが空気のように存在していて、なおかつうまく機能しているうちは、僕達はそれを意識することがない。ところが、それがなくなってしまったり、問題が起こったりして初めて、僕達はその存在を意識する。その時には、それはもはや元の形で存在してはいないのだ。問題が起こるまでには、多くの場合前触れやきっかけがあり、その問題が進行したり拡大したりするプロセスも当然あった筈である。ところが、それが表面化するまで僕達は気付かない。何とか現状を保っているかに見える間は、それまで通りに対処している方が楽だからである。偶さか、水面下で進行している事態に気付いた誰か(専門家だったり一般の人だったりする)が警告を発することもある。だが、僕達の多くは、まだまともに取り合わない。何しろそうした声に耳をふさいでいれば、何も考えなくても今まで通りことは運んでいるのだから。こうして、僕達を支える「安全装置」を僕達は失っていく。その時僕達は、それが何であったか、どういう仕組みであったかを漸く意識することになるのだ。こうした事態は、オゾンホールの拡大や地球温暖化、大都市のゴミ問題や開発による環境破壊といった問題から、破局を迎える夫婦や恋人達、医者の警告を無視して飲酒を続ける肝臓病患者等、ありとあらゆる場所、局面で起こっている。「転ばぬ先の杖」という言葉があるが、転んで初めて杖の必要性を感じるというのが現実であろう。それどころか、転んでみるまで自分がどうやって歩いているのかすら意識していないというケースが大多数ではなかろうか。 しかしより本質的な問題は、それが「安全装置」として機能していたシステムそれ自体の妥当性ということではないか。処分場の場所さえ確保できればゴミを出し続けられる消費社会は、本当に安心な体制なのか。自分が我慢することによって維持される家庭は、一体誰の幸せのために存在しているのか。誰かの犠牲の上に成立する秩序や、矛盾を覆い隠すことで保たれている平和な日常は、いつか足下から崩れ去る。筋肉痛や骨折のように、不具合が発生してからシステムの全貌を知るというのでは遅すぎる。万能な安全装置など存在しない。もっと根本から自分達の属する大小さまざまなシステムのあり方を見直すべき時期に来ている。 そう書きながらも、病み上がりでこの文章を書いている僕のことを省みれば、これまで何度も慢性の睡眠不足から体調を崩すということを繰り返している。病が癒えてすぐの時期は、気を付けて睡眠時間を確保すべく努力するものの、数日たてば元の木阿弥である。今のところは大病といわれるものとは縁がないが、健康こそは失って初めて強く意識するものの典型であることを肝に銘じておかねばならない。とはいいつつ、たとえ病の床から起き上がれなくなっても、キーボードを叩く力のあるうちは、僕は最後の最後まで「書く」ことに全力を注ぐであろう。たとえそのことで寿命が数日縮まったとしても、きっとそうしてしまうに違いない。僕も人の子である。なかなか学習ということをしない。
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