思考過多の記録
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2000年10月10日(火) 偶像(アイドル)とカリスマ

 多くの人々に熱狂的に支持され、祭り上げられ、その一挙手一投足に注目が集まる存在、それが偶像(アイドル)である。またの名をカリスマともいう。両者はしばしば曖昧に使い分けられているが、ちょっとニュアンスが異なるように思える。「カリスマ」というと自分達には手の届かないずっと上の方に君臨している存在という感じがあり(もっとも、今では「カリスマ美容師」や「カリスマ店員」などという中途半端に偉そうな存在もあるのだが)、それに対して偶像の方はどこか自分達とさほど変わらないレベルという感覚がある。「カリスマ的存在」というと何やら近寄り難いが、「アイドル的存在」だと声のひとつもかけてみて、あわよくばお茶にでも誘ってみようか、という気にもなる。この違いはどこからくるのか。私見であるが、カリスマが周囲に発見されて存在するのに対して、偶像は周囲が作り上げるものだといえるのではないか。
 よく知られていることだが、アイドルはどのようなイメージで売り込むかという戦略によって、売れ方が全く違ってくる。おそらく事務所がリサーチした最も売り込みたいターゲットがどんな指向性を持っているのか等のデータに基づき、本人の元々のキャラクターとはあまり関係なく、アイドルのトータルの‘色’(キャラクター)は決められていく。勿論、本人の‘素’のキャラクターが受けそうな場合(“天然”や“癒し”等)は、その部分を強調して出すようにプロデュースするのもありだ。このようにして、まずごく近い周囲からアイドルは作られる。そして、実際にメディアを通じて衆目に曝されるようになると、今度はより多くの人々(ファンやそうでない人を含めて)がアイドルを作り上げていくことになる。「等身大」の気持ちを歌い、ファッションリーダーであることを求められれば、アイドルはそうした期待=欲望に応えなければならない。ナイスバディが売りならば、露出度の高い服を着るような仕事の頻度が上がるだろう。決して人によって評価が別れるような話題に関する発言(分けても政治について)は慎まなければならないし、そういう活動をしても行けない。それは「周囲」の誰もが望んでいるわけではないからだ。大衆の視線が偶像を作り出す。そして、偶像が自分達の望む通りに動き、なおかつ自分達より半歩くらい先(一歩ではない)を行ってくれている場合に、大衆は偶像にオーラを見るのである。つまり、偶像のオーラは月の光と同様である。大衆は自分達の欲望の輝きを見ているだけだ。だから、たとえ売れている間であっても、アイドルがアイドルであり続けるのは、本人にとっては結構しんどい。場合によっては死人が出たりもする。
 一方のカリスマは、大衆によって「発見」されるものだ。カリスマがカリスマたりうる条件は、カリスマ本人が持つ人並みはずれた高い能力と、それに対する周囲の羨望である。多くの場合、カリスマは決して周囲に阿らない。その必要がないからである。アイドルは周囲に育てられる(作られる)が、カリスマの能力は基本的には周囲とは関係がない。とはいえ、発見され、衆目に曝され、脚光を浴びなければカリスマにはなり得ないことも事実である。大衆の欲望の眼差しがここにも大きく絡んでいる。カリスマの発するオーラは彼自身の能力が人々を魅了する結果であるが、そのオーラを拡大していくのは、やはり大衆の欲望であり、時代や社会の要請である。それを巧みに読みとって、その力で自分の存在を大きくしていこうとする者も現れるだろう。
 偶像もカリスマも、自分がなろうと思えばなれるというものではない。大衆の指向性や時代の空気等によって、まさに祭り上げられるものだ。所謂‘流行もの’である。だから、当然のように、流行が去れば同じ大衆によって貶められ、やがて忘れ去られる。持ち上げておいて飽きたら捨ててしまうのは、僕達大衆の得意技だ。現在の地位が自分だけの力によって得られたのだと錯覚して、その上にあぐらをかこうとした偶像達は、あっという間に表舞台から姿を消していった。カリスマも、忘れられればただの人である。そして大衆は次の欲望の対象を求め、新たな偶像が生み出され、次のカリスマが発見される。古い偶像達がその最盛期と同じ影響力を持つことはない。考えてみれば、残酷な話である。
 さて、アーティストや芸能人や政治家だけでなく、僕達は常々、もっと身近な存在の中にも偶像を作り上げ、カリスマを発見している。例えば自分の愛する人のことを考えてみよう。僕達はそうやって大切な人を自分の中で祭り上げ、捨ててきてはいなかっただろうか。


hajime |MAILHomePage

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